不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法17ー2)
○うっすらとした感情
そして、果たして有り難いのか、この長が何かと私に関わるようになってきた。
私は、微妙な気持ちになった。
うーん、目にかけてくれてありがたい・・・
のか???
(;-ω-)
という感じである。
(詳細を書くのは、極力控える)
おそらく、長としては、私にいろんな経験や知識を与えたり、
できるだけ手厚く交流をしてやろう、
と思ってくれていたのかもしれない。
しかし・・・
個人的には、
もっとやらねばならない業務に集中させてほしい、とか、
不必要に長と親交を深める時間があったら、
急ぎの業務を一秒でも早く遂行したい、
という思いが強かった。
それに、私に手厚くしてくれるエネルギーを、
いつも長が叱責している自社の部下に、もっと向けてほしかった。
そうであれば、私たちは、誰かが誰かを大声で叱責し、
ダメ出しする不愉快な怒鳴り声を、もう聞かなくて済むのである。
さらに云えば、どうしても人間的に尊敬できなかった。
詳細は省略するが、
仕事の本質からかけ離れた負担を、従業員たちに押し付けているのでは?
という疑いが、どうしてもぬぐえなかった。
その長は、深夜の業務への同行にもそれとなく誘う。
私にはまだ幼いこどもがいて、深夜勤務は不可能だ。
ということは、最初の面接時によく話し合った。
しかし相手はパワーを持っている。
断りにくい。
が、断るしかない。
こうして、ひとつひとつに消耗していった。
○信じてもいない神を讃えよ
さらに、
私は会社の職員ではないため、
出勤時間を遅くしていたのだが、
私が勤務するのをみなで待って、
宗教的な祈りを捧げるようになったのである。
会社の業績を願掛けするのだ。
了解も得ず、急に呼び掛けられ、
とにかく一緒にやってください、と強制させられたのだ。
無論、断れない。
何度も書くが、
これは人間全体がおたがいのために気を付けなければならない、
要注意事項なのである。
人間は集団となると、どんな方向に行くかわからない。
排除しろといえば、排除する。
殺せといえば、殺す。
人間の集団は、集団になればなるほど幼稚化する。
集団化した人間は、
歯止めがきかない。
みんながやってるから、
世間がやってるから、
会社がずっとやってきたから。
それだけの理由で、人間集団は容易くまちがいを犯す。
「神」がこういってるから、と言われればそれが善という基準になり、
否応なしに、従わざるを得なくなるのである。
過ちは歴史のなかで、何度も何度も起こっている。
現代であっても同じ。
このようにいろいろとあったが、
すべて「私が断りにくい」という状況を、上司として利用しているように感じられた。
○感情はなぜ封印されるか
退職直前、
もう会わなくてすむと思っていた矢先、
理由や必然性をこねくりだして、○○業界団体の懇親会に誘おうと、
こちらを虎視眈々と見つめていた。
気のせいかもしれないし、勘違いかもしれない、とわかってはいても、
もう耐えられない、と正直思った。
一応、家庭の事情で退職する、と告げたのだ。
夜遊びできる状況ではない、とわかっているはずだ。
その後、社用メールで仕事について連絡すると、
帰宅後、私用の携帯電話に、ショートメールが来た。
返信したら、アウトである。
相手の脳に報奨を与えることになるからだ。
どんな処遇を受けようと、歯を食い縛って、スルーを決め込まなければならない。
そうでないと繰り返される。
また昼間確認事項済みの案件について、
終業一時間後に私用の携帯電話に電話がかかってきて、
再度、同じ内容を何度も確認されることもあった。
対応しないわけにはいかない。
気が重くて仕方ない。
こういったことが、とてもいやだ、
という自分の感情に、
明確に気づいたのは、
退職の二日前のことだったのだ。
私が完全に勘違いをしている可能性も、もちろん大。
しかし認知を修正しても、
なにか不愉快なのだ。
「立場を利用して、断れない状況を盾に、絡んでくる」
ような気がするものは、仕方ない。
それなのに、
「待遇がいいし、社会的に安定しているから」という理由により、
おそるべきことに、
自分の感情であるにも関わらず、
何がいやか、
何がストレスだったのか、
自分でもほとんど、わからなかったのだ。
なんだか、ちょっと、あの人、うっとおしいな・・・・
絡まれるのが、ちょっと嫌だな・・・・
それくらいは感じていたが、
まさかそれが原因で、体調不良まで起こしているとは、絶対に思わなかった。
なぜ、こんなことが起きるのか。
なぜ肝心な感情を封印してしまうのか。
人間は社会的価値観により、正直な感情を押し込める。
自分のストレスを見えなくしてしまう。
大きなストレスである、という感情を封じ込めてしまうのだ。
その感情に気づいた時、自分はわがままだ、と私も自身に対して思った。
我慢しなくてはならないのに、と自己嫌悪に陥った。
しかし、そう感情として抱えてしまったものは、
いちど自分で受け止める必要があるのではないか、と私は思う。
実際どうしていくか、という行動の段階になった時には、
社会的な常識やら価値観が必要になってくるのかもしれないが、
封じ込めている正直な強い感情に対しては、
こう感じているのだ、といったん解放し、認識したほうが良いと思う。
行動はどうするかは、また別の選択なのだ。
つまり、
社会的価値観、一般的常識、自身のこうであろうという価値観(罪悪感)。
それらにより、
自分の感情を把握できないようになってしまう心の働きが、
人間のなかにはあるのだ。
<17ー3に続く>