不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法8)
あなたは自分に価値がないと思うだろうか?
私はあなたによって、心に灯火を照らされた。
あなたは自分の力を知らないのだろう。
○本当に大切なものは、無料で与えられる。
数値や報奨による価値付けに慣れてしまっているため、
価値を捕らえにくいが、
本当に大切なものには、値段はつけられない。
空気や、太陽の光や、愛しい家族のぬくもり。
あなたが生まれてくる時に、
「今後これらを使うから、料金を支払いますバブ」
とは言っていまい。
生命の維持活動にとって、非常に大切なものには値段がついていない(水道料金以外)。
もしそれらが無いと、命の存続に関わるからだ。
人間は、これはこうだとよくもわるくも分類しがちである。
その分類の弊害は、片寄った価値付けをしてしまうことだ。
それを取り外し、エネルギーとして考えてみよう。
あなたのそばにいて、ぬくもりを与える人や、
あなたをケアする人。
老いた家族も、幼い子供も、
いるのが当たり前で金銭による報奨のやりとりは無い。
しかし、もしそれが失われてしまったら、
あなたは生きていけないはずだ。
これが人間の尊厳というものだと思う。
自分にとって真に価値ある人間とは、
幼い人、老いた人、病で弱っている人、…
そのように無力と言われる人たちなのだ。
赤ちゃんや、老いた親、傷ついた人。
そういった人たちのことを思うと、胸が締め付けられるようになるだろう。
あなたにとってなくてはならない、大切な存在だからこそ、
あなたは胸を痛め、全力で守りたいと思うのだ。
彼らが傷つくと、あなたの心もズタズタに切り裂かれるのは、
あなたにとって真に価値がある存在だからだろう。
価値があると書くと語弊があるが、
その存在が命の根源だということ。
そういった存在は、強くてお金もうけが上手な人ではない。
バリバリ仕事ができて、美形で、社会から称賛される人ではない。
弱く、真に美しく、大切な人なのだ。
扁桃体にとって大切なものは、
無力な人なのだ。
無力と無価値は、まったくもって対局にある。
だからこそ、人間の中には尊厳がある。
その人が病や老いによってなにもできなくってしまっていても、
または幼くて、今だ自分では何もできない状態でも、
呼吸をしている限り、
存在している限り、
尊く眩しい。
自分の尊厳が、
相手の姿に投影されているのだ。
理屈では説明できない摩訶不思議なことだが、
思い込んでいる価値感と、真に感じる価値感とは異なる。
しかし、それによって自動思考がかってに判断し、
自分にあやまった思い込みをする可能性があるので、
そこは注意が必要なのである。
間違った思い込みに、踊らされてはいけない。
不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法7ー2)
人間は、収入や成績等で示される成功のみに焦点をあてがちである。
主に”数字”の報奨のみに着目してしまう結果、
それが得られないと、
自分に価値がないと思い込んでしまったり、うつ状態になったりしてしまう。
前回、そのような状態で苦しい時に、
どう対応すれば不安が減るのかすこし書いた。
具体的にはどうしたらいいか、この記事で、もう少し詳しく書いていこうと思う。
○収入や成績等の数値、または社会的評価というものは、ひとつの価値基準でしかない。
と、わかっているつもりでも、
上記についてある程度のものを手に入れなければ、
自分が人より劣っているとか、
価値がないとつい考えてしまう。
またはそれを追い求めるために不安になったり、恐怖感を覚えたりする。
わかっていても、
どうしても極端に考えてしまう。
一度刷り込まれた考えは手放しにくいからだ。
そこである例を提示しよう。
#################
Q:あなたに提案がある。
たとえばあることをしたら、社会からものすごく誉められ、1億円もらえるとする。
…そのあることとは、
あなたの心臓を売ることである。
さてあなたはどうしますか?
##################
ちょっと今観ているDVDの影響のせいか(←何観てる)エグい例えになるが、
あなたなら、この場合どうするだろうか。
もちろん二択でお願いします。
##################
答え:
A:心臓を与え、1億円もらい、社会的に絶賛される。
B;断る。
##################
どちらを選びましたか。
即答でBでしょう。
わかっているはずである。
成功も社会的評価も大金も、
脳にとって、
効力のあるテリトリー範囲には限りがあるのだ。
心臓を他者にくれてやるから、それで幸せになろうよ?
と脳に提案しても、脳は絶対に納得しないのである。
それら数値による成功、もしくは他者からの社会的評価という成功は、
ある種の共通幻想にもとずいたものでしかない。
架空のものでしかないのだ。
つまり、カネと社会的評価などの価値基準A以外に、
なにか別の価値基準Bを、自分のなかに持っているということである。
○別の価値基準Bとは?
自分が社会的に価値がないから、人間として価値がないと考え、苦しくなったり、それを手に入れられない危うさから、不安になったりしたとき、
どうすればいいのか?
前回の記事に書いた。
”あなたの魂が、なにを得たのかに焦点をあててほしい”
と。
過去から現在に至るまで。
今日という日のなかにおいて、振り返ってみよう。
以下は、あくまでも例にすぎないが列挙してみる。
憧れの土地に旅をして、素晴らしい光景を目の当たりにし、悩みを忘れて感動した。
好きな歌手の新曲を聞いて、胸が揺さぶられた。
落ち込んでつらいとき、知人に励ましてもらった。
恋人から初めてのプレゼントをもらった。
母親などの家族にプレゼントを買ってやると、すごくいい表情で喜んでくれた。
子供が生まれた。
自分の赤ちゃんのほっぺの感触がやわらかく、まなざしがキラキラとしていとおしく感じた。
自分になついてくれていた行方不明のペットが見つかった。
ほんとうに好きな人ができた。
その人が自分に笑いかけてくれた。
自分の成長を親が喜んでくれた。
古い友達と再開し、海や山などでキラキラとしたすばらしい時間を過ごした。
見知らぬ土地で一人ぼっちでいたが、ようやく新しい友人ができた。
等々。
こう羅列すると気づくはずである。
これらのことは、あまりカネや社会的評価とは関係ない。
よいことだけではなく不思議ともう戻らない日々のことを考えても、
特有の気分になる。
学生時代の卒業式。
亡くなってしまった優しい友人。
もう行くことのない土地の風景。
別れた恋人。
これら、魂を揺さぶるような出来事に着目してほしい。
カネというものはデフレやインフレが起きたらすぐさま価値が変動する。
カネや社会的評価というものだけを人間の価値基準として追い求めた時、
行き着く先はどうなってしまうか。
”基軸通貨”と”戦争”という言葉を検索して読んでほしい。
ひとつの価値だけに絞ると、
生命体としては非常にうまくいかなくなってしまうのだ。
○あなたにとって一番の成功とは
一番の成功。
それはあなたが生まれたことだ。
あなたが今日という日まで生き続けていること。
これはものすごいことなのである。
なぜなら、あなたがそこにいること。
それが私にとっての喜びだからだ。
そんな風に思わぬところで、
あなたは誰かの胸に灯火を照らしているのだ。
○値札を外し、エネルギーとして見てみる。
前回紹介した私の経験に戻るが、
友人が親身になって励まし、仕事の案件まで紹介してくれた。
それが何かを得たことだ、と改めて認識したとたん、
ものすごく気持ちが満たされ、不安が軽減した。
なぜなのか。その理由は?
それが一種のエネルギーである、と認識できたからである。
相手から得たもの、またはすばらしい旅の経験、好きな音楽など、
値札をすべてはずし、
それらが何らかのエネルギーである、と見方を変えてみる。
カネも社会的評価もエネルギーである。
友人の励ましもエネルギーである。
自分の子供が生まれ、生きていることも。
恋人から愛を告げられることも。
親友と楽しい時間をすごし、心を高揚させることも。
もしくは好きな国や土地に行き、魅了され発見することも。
誰かから助けられることも、誰かを助けることも。
すべて一種のエネルギーである。
するとあなたはいろんなものを、
もうすでに得ていることに気づく。
これらは、生命の維持と継続にとって論理的に重要なこと。
センチメンタルな想い出話にとどまるものではない。
他者から助けられること、励まされること。自分が誰かを助けること。
カネのない時代には、もともと生命である人間は、それらを駆使して生き延びてきた。
それ以外にも、
好きな場所に行く。すばらしい景色を発見する。
美しい音楽を聞く。
誰かを愛する。
これらのことが心を躍動させ、脳を活性化し、生命活動の継続を強くさせてきた。
カネというシステムは人間の共同幻想にしかすぎない。
成績主義で価値が決まるのなら、トップの人間以外皆殺しでいいはずである。
しかしそれだと滅びてしまう。
互いがいろいろな分業をしているからこそ、自分も他者も生きられるのだ。
あなたが人生に、
つまり生きていることに愛情を感じている時、
こういった成果に対する感動は起こる。
扁桃体は、数値や言語の表現ができない。
だが、こういったすばらしい経験、
平凡であるかもしれないけれど、あなたにとって大切な経験について、
ちゃんと価値あるものを得たとして、
脳はしっかり”成果”として、反応している。
感動という心理表現によって。
これら扁桃体が好む”成果”は、
考え方によっては、
使えばなくなるカネとは違い、
生きるために真に価値のある成果であるとも、言える。
○まとめ
自分に社会的評価がないとか、収入を誰かと比べて落ち込んでしまい、
その苦しさから逃げられない時には、
カネと社会的評価以外の、価値基準に焦点を当ててほしい。
一本主義でやっていくと追い詰められてしまうのだ。
もともとの根元が、それだけではリスキーだとわかっているからだ。
だから、そのような苦しみにとらわれているときには、
もうひとつの扁桃体にとっての価値基準、
生命として、人生をいきる人間としての価値基準に焦点をシフトしてみよう。
このとき最も重要なことは、
それらも、成功体験だよ、
と言い聞かせるのである。
改めて実績を再評価し、
伝えてやるのである。
カテゴリーを二分しよう。
そうすると不安に覆い尽くされていた気分が、鎮静していく。
なんだか一般的な価値基準にだけ惑わされていたな、
と目が覚めたような感じになっていく。
○扁桃体の感じる成果、幸せ(扁桃体による成功)には、ある特徴がある。
魂が揺さぶられたり、切なくなったりする感情。
それらは、どこか尊い。
上質で、尊く感じられる。
なぜかというと、
そのことを通して、あなたは生きていることに愛情を感じたからだ。
あなたは自分の人生に愛を感じた。
自分の生と、自分以外の外的世界に、愛情を抱いたのだ。
そして非常に価値があるとわかっているから、
大切で尊く感じたのだ。
あなたが「生きていることを愛した」
それが扁桃体が揺さぶられた一番の理由なのだと思う。
不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法7ー1)
他者から能力を評価される。
そうなりたいが、思う通りにいかず気落ちする。
社会的評価。
他者と自分を比べてどん底に落ちそうになる。
等々。
自分はなんてダメな人間なのだろう、と思うことが多々ある。
他者からの評価や、自身が自分をどうにも評価できないときの落ち込みは、
想像以上に苦しい。
これは”承認欲求”に対する渇望なのだと思う。
他者や自分から認めてもらいたい、という欲求で、
その感情自体はあって当然であり、健全なものである。
しかし承認欲求が得られないと、
人間は自分には価値がないのではないか、とつい極端に考えてしまい、
絶望したり、不安になったり、うつ状態になってしまったりする。
社会的成果をあげることができていない、とか、
仕事で認められていない、とか、
テストの成績、学歴、収入、年齢等々…
こうであれば価値ある人で、
こうでなければ価値のない人、
というように、自分を成績・報奨などの数字や他者からの評価によって二分してしまう。
そして恐怖心や絶望感を抱いてしまう。
「今日は何も仕事で成果がなかった」
「何も得られるものがなかった」
「何も前進していない」
もしあなたがそんな風に感じて苦しい時には、
今日という日に、
収入や成果に関わること以外に、
魂が何を得られたのか、ということに焦点を当ててほしい。
(以下、自分のつまらない体験で申し訳ないのだが、
わかりやすくするために例として挙げたいと思う)
ある結構大きな会社からいい仕事が貰えそうだったが、
なかなか決まらなかった。
担当者から電話も来ない。
自分は仕事をやっていく上で、彼らにとって価値がなくなってしまったのか、と思い悩んだ。
さらに、こういったことはなぜか同時に起こるもので、
複数の会社に声をかけていたのだが、進展していた途中で、
同時に連絡が来なくなったのだ。
人間は点と点を見たら、直線を引いてしまうド変態である。
「もうダメだ、自分は価値がないと見なされたのだ。
過去うつ状態で15年もフリーズしていたことや、
またはうつ状態で会社に行けなくなった時のことが全員に知られてしまったのか」
と考え、非常に苦しい時間を過ごした。
同業者の友人にそのことを、さらっとした文面でメールした。
一緒に苦労の道を歩いた仲間でもあったので、
こういったことは相談しやすかったからだ。
すると、メールの返事がかえってきた。
”そんな過去なんかあの会社の人たちは知らないですよ。
過去は過去なんで、これから助け合っていきましょう”
と、自分の案件を振り分けてくれたのだ。
私は非常に驚いた。
たしかに友人ではあったが、こんな言葉で励ましてくれるなんて思ってもみなかったのだ。
それに仕事まで分けてくれた。
友人は苦労を共にした仲間でもあったが、
ライバルでもあった。
相手には負けたくないという気持ちも、どこか常にお互い持っていた。
しかし、ある時、私は相手が苦痛を感じない程度の言い方で、
自分の過去についてすこしだけ打ち明けた。
相手も大変つらい境遇にあったことを、知っていたからだ。
打ち明けたとたん、相手の言葉がすごく優しくなった。
表向きそうやっているのではなく、
本当に親身になって励ましてくれるようになったのだ。
しかし友人からアドバイスをもらっても、以前状況は変わらなかったから、
苦しさは続いた。
自分がその大きな会社から選ばれたかったという思いが強かったのだ。
そこまで到達することができれば、
過去の失敗をある程度ぬぐいされ、価値のある人間になることを証明できる、
と感じていたからだ。
ダメだった自分が、評価される自分に変わる。
そこに希望を抱いていた。
だが、自分が相手に選択を強いることはできない。
相手が選ぶか選ばないかは、相手次第であり、相手に権限があるのだ。
こちらからは何をやってもどうしようもない。
そんな苦しさを味わううち、
どうしたらこの不安や苦しさが柔げられるのか、と模索した。
そして、
「お金」や「成功」や「評価」とはまた別の基準の、
自分を満たすものについて考えることにした。
今日、私の魂は何を得たのか、と考えた。
つまりカネも評価も関係ない事柄で得た成果について、だ。
”あの友人が親身になって励ましてくれた”
それが人生にとって大切な宝物のように思えた。
人対人で得られるかけがえのないエネルギーだった。
友人は無償の思いで励ましてくれた。
つまり私は、
カネや報奨とはまた別のエネルギーを、
誰かから受け取ったのだ。
15年、寝たり起きたりで抗うつ剤に縛られ、関わりを避けていた人間が、
友人をつくり、その人が心からの想いをもって励ましてくれた。
奇跡のような出来事に思えた。
いとおしくなるような出来事だ、と気づいた。
カネや社会的成功がわるいというのではない。決してそのようなことはない。
それはそれで目標にし、向上していけばいい。
ただそれだけではなく、脳には複数の価値基準があるということ。
そこに自分自身で焦点をあてると、
不安を感じていた脳の部位は、すこしずつ鎮静する。
言語を持たない扁桃体の価値基準は、
数字や成績などによって示される部位の価値基準とは、
異なるものだからなのかもしれない。
脳の価値基準の判断の仕方はひとつではないのだ。
成績や収入等以外の価値基準がわかりにくい理由は、
おそらく扁桃体が数字や言語などの表現方法を持たないからだ。
扁桃体はなんによって”収穫”を感じるか?
なにか扁桃体にとっての幸せなのか?
ここまでは、すこし「イイ話」のような抽象的な表現だが、
次回、もう少し理屈っぽく説明していこうと思う。
<7ー2につづく>
不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法6)
”成功”を追い求めることに対する、脳の反応は意外なものである。
脳の中の「感情」は往々にして、
自分のものなのに、思った通りに動いてくれないものである。
いわゆる”成功”を追うことで、
なぜか生じてしまう不安や苦痛の感情については、
前回の記事に書いた。
これは、扁桃体が、言語を持たない場所からである。
自分であるのに、自分がどんな感情になるのか、
自分なのに、どうコントロールすればいいのか、
わからないのだ。
それでも、自分であるのには違いない。
だから、どうつきあっていけばいいのか、
どうしたらもう一人の自分は、充実し満足感を得られるのか、
今回は、ヒントを書いていこうと思う。
○”成功”は人によって基準はさまざま
当たり前過ぎてスルーしてしまいがちになるのだけれど、
成功の基準は人によって違う。
たとえば年収600万円でまずまずと思う人もいれば、
少ないと思う人もいるだろう。
これだけ貰えるのなら胸をはれると思う人もいれば、
数千万円、数億円の年収ではないのだから、
自分は失敗者だと思う人もいるだろう。
物価の安い国で、成功者として高い年収をもらっていても、
物価の高い国に行けば、低所得者並みの賃金である、ということも。
結婚して家庭に入るのが”成功”だと感じる人もいれば、
結婚や子育てで人生を終わらせるのは”失敗”だ、と思う人もいるだろう。
社会でトップレベルの権限のある役職についていても、”成功”とは限らない。
その人が法を犯すような仕事をし、社会から冷たい目で見られ、
こそこそ隠れながら生きているさまを見ると、
いくら成功者と云われる役職についていても、
「絶対にその人にはなりたくない」と思うだろう。
絵に描いたような成功者の日々を送ることができたとしても、
成功を求めるために、不安にまみれ、
報酬を与える人にコントロールされ、苦しみながら生きていれば、
しあわせとは言えないだろう。
当たり前すぎて書くのもはばかられるが、
脳はわかっているようで意外にわかっていないのだ。
いわゆる一般的な”成功”とは、
あなたが頭の中でイメージし、造り上げたものであって、
真実とは異なるものなのだ。
○扁桃体がわくわくするのは、報酬額の大きさではない。
どうやら、
「やってみたい!」「うれしい」「わくわくする!」
と扁桃体あたりが喜ぶのは、
報酬額には比例しないようであることが最近わかった。
報酬額が大きいと当然、興奮し、嬉しくなるのだが、
「その仕事自体をやってみたい」と意欲を持つ時の、
感情の動き方とは、異なるのだ。
実体験になるが、
ある会社から仕事を受けないかという依頼があった。
15年もうつ状態でフリーズして、
生活するのもやっと、体の原因不明の痛みも出て、不安と恐怖でのたうちまわっていた自分からすると、
驚くような報酬額を提示された。
相手はさらに、
「足りないのなら、おっしゃってください。できるだけ出せるようにします」
と言うのだ。
打出の小槌状態だ。
その会社に、ぜひ仕事をしてほしいと、
お願いされ、頭を下げられた。
何度も連絡をもらった。
しかし、である。
いざ、その仕事を引き受けると約束すると、
しだいしだいに条件が変わっていった。
自分では対応が難しいような仕事内容に変わったり、
そのほかいろいろなものが、最初の条件とてんで変わってしまったのである。
しかし、報酬額が大きかったから、
私はなかなか手を引くことができなかった。
なんとか仕事を引き受けられないかと考え、
無理をしてでも仕事を受けようと試行錯誤した。
この案件を捨てるのが嫌だったのだ。
高い報酬額を提示され、さまざまな好条件を与えられた私は、
自分が誇らしく思えた。
そのうち相手の無理難題をいつのまにか呑んでしまっていた。
相手との交渉という行為も、非常にストレスになった。
実際仕事を引き受けても、長くはつきあいきれないと思うようになった。
これでは無理だと、どこかでわかっていた。
そして、その仕事を逃してしまうかもしれない、と思うと怖くなった。
気分も落ちたり、上がったり、と波が激しくなった。
それでも手を引けなかったある日、
世話になった知人から一本の電話が急に入った。
短期間だけうちの手伝ってくれないか、と頼まれたのだ。
事業は日本でもトップレベルのしろもので、
そこに携われるだけでも嬉しかった。
しかし、その仕事を引き受けるとなると、
前に提示されていた報酬額の大きい”成功”をイメージさせる仕事から、
手を引かなければならない。
どうするのか?
と悩まずに、一瞬で決めた。
内容が素晴らしい。その仕事をしてみたい。
その場所へ行ってどういうやり方をしているのか見たい。
学びたい。
と思ったので、報酬の話はいっさいせずに、引き受けた。
たぶん、びっくりするほど報酬は安くなるとはわかっていた。
しかしそれでもいいので、どうしてもやってみたかったのだ。
扁桃体は喜びでいっぱいになった。
わくわくした。
準備も、ものすごいスピードで次々こなすことができた。
そのいっぽで私は非常に不思議に思った。
どうして一般的に”成功”とイメージされるような報酬の高い仕事を提示されたのに、
それを断ってまで、
こちらの報酬の低い仕事を選びたいと思ったのか。
そしてタダ同然の報酬額であるのに、
それを提示されたことに喜びを覚えたのか?
扁桃体の真の反応が、
自分が思っていたものと違うのである。
予測もしなかった感情の動きなのである。
そんな安い仕事を提示されて、情けなくなったり、落ち込むのではないか、
と大脳新皮質あたりは予測するのだ。
しかし、扁桃体は実際には真逆の反応をしたのだ。
なぜか?
内容がよかったからである。
なぜか?
技術を身に付けられるからである。
日本のトップレベルの事業の技術を身に付けられるからだ。
信頼できる知人が仕事を依頼してくれたことも、
すごく嬉しかった。
私がその仕事に興味があると知っていて、
その場を提供してくれたからだった。
つまり、
扁桃体は自身の予測通りには、動かない。
あなたがイメージしている「あなたのしあわせ」と、
「扁桃体が感じているしあわせ」は異なるのだ。
扁桃体の欲求は、比較的原始的な欲求なのだ。
○脳が欲しいのは、「成功」ではなく「技術」
今回はあくまで仕事上の話になるが、
扁桃体を満たし、向上させ、喜びを与えるものは、
”成功”ではなく、
”技術”なのだ。
そこで仕事をしている間、
ものすごく気分は満たされた。
もちろん不安の感情も時々起こったが、
第一線の場所で、それらのノウハウに触れてるだけで、
扁桃体は喜びを感じたのだ。
「充実感」のようなものだ。
ちょっとしんどくても、
そこで与えられた仕事をクリアするために試行錯誤したりすることで、
かえって自分が満たされたのだ。
報酬額の大きい仕事について、交渉している時よりも、
いくらもらえるかわからないこの仕事をやっている時のほうが、
扁桃体は、確実にしあわせを感じていたのだ。
そこで、私は気づいた。
「ああ、自分(の扁桃体)がほしかったのは、
一般的にイメージされる”成功”ではなくて、
”技術”だったのだな」
と。
技術があれば、職に困らない。
技術を高めれば、いずれもらえる報酬も高くなっていく。
技術を高めれば、本当の意味で必要とされる(ニーズこたえることができる)。
技術を高めれば、人にもっと質の高い何かを与えることができる。
技術があれば、いろいろな場所を渡りあるくさらなる自由を得られる。
技術があれば、そのような自分を誇らしく思える。
成功ではない。
脳の本質が欲しがっているのは技術、すなわち、
具体的な力なのだ。
○”技術”とは”情報”のこと。
では、技術とはなんなのか。
どうやって手に入れるのか?
”成功”という言葉を”技術”に置き換えると、
どう行動すればいいか明白になる。
脳のために、自分がどんな行動を取ればいいのか、はっきりするのだ。
その時、その大事業をしている場所で
いろいろな人と仕事をして気づいたのは、
”技術”とは”情報”であるということだった。
この情報、このやり方は、ここでしか身に付けられない。
ここにいると、こういうことがわかった。
こういうやり方このような事業をする時には必要だった。
つまり、技術を身に付ける、ということは、
実践に必要な情報を収集する、ということ。
もちろんそれだけではない。
収集した情報を、アウトプットしなければならない。
収集した情報を自分自身で咀嚼し、自分の手足や脳を用いて、
サービスとして提供しなければならない。
それらをどうするかというノウハウついても、
また”情報”なのだ。
自分がどうやって、この技術を人に提供するか、という命題についても、同じだ。
「どう自分をコントロールすれば、ある程度の質をもって提供できるのか?」
「どう自分をコントロールすれば、他者にやり方を教わることができるのか?」
「どうすれば、覚えるのか?」
等々。
○技術を身に付けていく行為が、自分を強くする。
自分の中に力があるのだ。
それが蓄えられ、大きくなっていく。
お金は使えばなくなるが、技術は高められていく。
肉体の中に備わっているから、どこでもやっていける。
それらの事実が、すべて自信になる。
自信→安心である。
○まとめ
・扁桃体は、
”成功”というもやもやとした実体のない雲のようなものより、
”技術”を欲しがっている。
・”技術”とは情報である。
上記のことを明確化すれば、
「ではどう情報を収集するか?」
というスッキリとした命題を脳に与えることができる。
そうすることにより、効果的な選択ができていく。
○ただし、扁桃体はある程度の報酬も必要とする。
後日談だが、そこで嬉々として仕事をして、
いざもらった額が、常識では考えられないほどの安さだった。
扁桃体としては、
「仕事で何かをやっているのだから、
無償でなんでも慈善事業というわけにはいかない」
のだろう。
納得しないようだ。
生活のために収入はある程度必要であるし、
あまりに報酬が低いと今度は、自分のやり方が良くなかったのかな、など、思案してしまう。
これくらいは受け取って妥当である、という額をもらわないと、
扁桃体は落ち込むので、注意が必要である。
扁桃体は意外にちゃっかりしているのだ。
不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法5)
成功したい、と願うことがある。
しかし成功にはいろんな種類がある。
成功…
そう書くと頭に描かれるのは、
男性であれば、札束、豪邸、腕時計。はべらかすボイン(死語)のおねえちゃんたち。
女性であれば、札束、豪邸、そして宝石にまみれ、エステ三昧の日々。
世間の人から、尊敬の眼差しで見られる。
颯爽と風を切る。
権力を持つ。
支配される側ではなく、支配する側になる。
大きな報酬を受けとる。
まあ、成功のイメージとはこんな感じだろうか。
それを追い求めて、がむしゃらに頑張っているのに、
なぜ苦しく辛くなるのか?
努力をしているのに、なぜこんなに苦しいのか?
○扁桃核はいわゆる「成功」を追い求めること、「成功」を維持することを、必ずしも幸福と感じない。
成功の種類によるのだが、
上記のいわゆる「成功」をつかみそうになったとき、
脳は承認欲求その他を満たされ、快感を覚える。
しかし、それを追い求めているうちに場合によっては、
怖くなる。
苦痛を感じる。
不安になる。
逃げたくなる。
けれどもチャンスを失いたくないし、手に入れたいからしがみつく。
時には相手が不条理な言い分を強制しても、
それを続ける作業に無理難題があっても、
騙されても、
成功を手に入れたいから、我慢する。
心のなかは不安でいっぱいだ。
それに不快でもある。
「成功」の報酬を与える相手に、まんまと支配されるからだ。
頭では、
成功=幸せ。
けれども扁桃体を注意して観察していると、
どうも幸せだと感じていない。
扁桃体は、
お金などの数字の報酬のみを追い求めたり、
承認欲求を満たすために支配されることを受け入れることが、
非常に「不快」
なのである。
リスクが大きいからである。
○お金とはなにか。
別にカネのプロでもないし、成功者でもないので、偉そうなタイトルに自分でも引くが…
一般的に知られていることをのべると、
お金そのものは単なる「数字の報酬」である。
紙幣は国家が作っているのではなく、
民間人が作っている。
国が、紙幣を作る権利を有しているある民間人に、
お金がこれだけ必要だ、と頼むと、
その民間人がカネを創って売る。
紙幣は紙とインクで出来ている。
印刷されてできあがったものを、その某民間人がただ同然で買い、
国家に与える時に、
一万円札なら、一万円プラス利子をつけて売り付ける。
この某民間人はカネという”幻想”を信用に変える権利を有しているから、
好きなだけお金を刷れる。
好きなだけである。
某民間人が、である。
これがお金。
お金の量は、つまり、「架空の数字」である。
身長や体重と違う。
実在しない価値なのだ。
これを求めるためだけにしゃかりきになると、
脳はピンと来ないから、理由のわからない目標に右往左往することに、
非常にストレスを感じる。
またお金と承認欲求に行動が支配されてしまうため、
扁桃体が、それを逃してしまうことを恐れるようになる。
○お金やいわゆる一般にイメージされる成功ではない”成功”
支配されるために生まれてきているのではない。
大量のお金やモノは、ひとときの喜びと興奮を与えるが、
魂を動かすのは、
人である。
善をといているのではない。
単なる性質である。
どうも扁桃体が喜びを感じるのは、
人対人から生じるよい感情のようだ。
誰かがこうしたら喜んでくれた。
誰かを助けることができた。
こうしたら、嬉しそうな顔をしてくれた。
そうすると、自分の心も同じように動くのである。
満たされる。
大事をなさなくてもいい。
守ってやった。
励ましてやった。
一緒に楽しんでなにかをした。
喜ばせた。
これらが扁桃体が、高次の喜びを感じる要素なのだ。
生物としての共同体だから、なるべく良い関係で共存することが、
一番死ぬ確率が低いからだ。
私は無宗教であるが、
聖書に書かれていることも知っている。
聖書では、このような脳の性質について説明している。
「おカネや支配というものをやみくもに追っていると、
あなたの扁桃体が苦痛を感じてしまうので、
追い求めるならべつのものをおすすめするけど?」
もし本当の充実感や、偽物でない喜びを追い求めるのなら、
それが脳にとっての”成功”であり、
一般的なイメージの成功とは違う、
ということを知恵者がアドバイスしているのである。
これにならなければ、自分は仕舞いだ。
と、思うのは、成功っぽくても、成功ではない。
こうしてみたい、こうするとなんだか嬉しい、楽しい。
こうするのをサービスとして人に提供したい。
こうやって家族や大切な人を喜ばせたい、
と思うのは、あなたなの根元的な欲求を満たす”成功”だ。
根元的な欲求が、
つまり人に与え、人から与えられる喜びなのだ。
宗教とは関係なくて、
神がいないとしても、これが脳の本質であり、
追い求めることでうつ状態になったり、
自分を犠牲にして支配を受け入れる成功は、扁桃体にとっての”成功”ではないので手を引いていい。
不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法4)
不安という感情は苦しいので、どう押さえ込もうかとついやっきになってしまう。
押さえようとしても簡単にはいかないので、消耗もする。
けれども、不安という感情はわるいものではない。
不安も恐怖も、前進できる方向にギアチェンジできれば、
とてつもない爆発力をもって、
物事を成し遂げることが可能になる。
うまく使えば、偉業を果たすエンジンにもなりうる。
不安は大きな推進力になるのだ。
だから、不安が生じてどうにもならないときには、
「これはわるい感情ではない」
と改めて自分に言い聞かせてみる。
さらに、ああなったら、とかこうなったら、というマイナス思考の渦にいるとき、
「ではこの不安をどうやって生かせばいいか?」
もしくは、
「この不安に対して、どうやって対応したらいいか?」
と脳に問いかける。
以前にも書いたが、脳は命題を与えると即座にその方向に向かおうとする。
問題を解決しようと働いてくれるのだ。
だから、
「この不安をどう和らげたらいいか」
「この不安を、よりよい生活を送るためにどう利用すればいいいか」
と自分の脳に問いかけるのである。
すると、脳はあまたある日々の情報の中で、
それに対応できるような情報を取捨択一し始める。
行動も少しずつ調整されていく。
無意識下であったり、意識下であったり状態はさまざまだが、
とにかく脳は必ず問題を解決しようとする。
これは生命の本質なのだ。
生命は進化という偉業を成し遂げてきた。
多様に分化もしてきた。
生き残るためにどうすればいいか、という命題のもとに。
それには時間が必要なこともある。
自分の行動力がカギになることもある。
それでも結果はかえってよい方向へ変わっていく。
先がどうなるのか、失敗しないか不安な気持ちはものすごくわかる。
いたいほど、理解できる。
最悪のパターンにならないか、傷つかないか…
私も往々にしてそれが怖くなり、右往左往することも多々ある。
しかしひどい不安を乗り越えたあの日々があったからこそ、
あれ以上の苦痛はなかなかもう来ないとわかっている。
地獄の底で苦しんだことが、結果として強さに繋がっている。
あれを乗り越えたから、まあ、これも乗り越えられるだろう、と
どこかでこんな自分でも信頼することができる。
不安は強さを培い、
具体的な行動を起こさせ、
その人を逞しくさせるのだ。
いい方向に使えば、爆発的なパワーになるよいエネルギーだ。
苦痛が大きいから、それをどうにか和らげたいだけであって、
決して無駄なエネルギーではない。
不安をどうやって使うか、
これを頭の片隅にインプットしておくと、
また展望も不思議に変わっていく。
それに、一生懸命なあなたのことだ。
必ず、やりとげることができるだろう。
そして、そういう姿は周囲にも、
ちゃんとどこかで伝わるものである。
自分に誇りを持つこと。
そんなにわるいことは起こらないから大丈夫だ!
不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法3)
前回の記事で、”かもしれない認知療法”について書いた。
今回は、この”かもしれない”の効果について少し書いていこうと思う。
○不安な時は、脳が「思い込み」をしている時
先行きについて考えた時、思わず不安になることもあるかと思う。
先行きだけに限らず、なにがしかの不安がもやもやと続いている時は、
大抵、脳は「思い込み」をしている。
こうなったらどうしよう、と言語上は思考しているが、
その「こうなったら」の部分が、
本当は「こうなりそうだから」「こうなるにちがいない」
と思い込んでいるのである。
「こうなるにちがいない」から不安だ、と思っているのである。
そのように苦しくなった時には、
不安の情動にのまれているため、
大脳新皮質のチェック機能が働いていない。
それなので、もやもやとした不安を感じたときは、
→私はいま、そうなると思い込んでしまっている。
だから不安を感じているのだ。
と心のなかで自分に伝えてみよう。
高い確率でこうだろう、とか、
ふつう世間ではこう言われている、
などの根拠が自分の中にあるのかもしれないが、
いい意味で、あなたの情報が世界のすべてではない。
いろんな人にきけば、それこそ、いろんなケースやパターンがあるということに気づくはずであるし、
実際そうなのである。
本当に無限といっていいほど、いろんなケースがあるのである。
この多様性が、人間社会を図太く支えている骨子なのだから。
もやもやとしたりぐるぐるマイナス思考にはまったり、
絶望感を感じてしまう時には、
思い出してほしい。
「今、私の扁桃体は、悲観的な状態になると思い込んでいる。だから苦しいのだ」
と。
すると、少し気分が和らぐと思う。
その状態が絶対起こるとは限らないことを、本当はあなたは知っている。
○”かもしれない認知療法”の「かもしれない」効果について。
ポジティブシンキングをすることは重要だが、
なぜか「絶対いい方向に変わる」「絶対将来○○となる」
と無理矢理刷り込もうとすると、
かえって疲れたり、不安になったりする。
なぜそれよりも、
多少ファジーな「かもしれない」と唱えたほうが、
不安が減る効果が高いのか。
私は無宗教だが、聖書には、祈る時の方法として、
「奥まったあなたの部屋に入り、隠れたところにいる神に祈りなさい」
と書かれている。
このことばの神学的な解釈はさておき、
このように表現されているところに理由がある。
「奥まった部屋」「隠れたところにいる神」とは、
潜在意識のようなものではないか、と云われている。
自分の願いや祈りを叶えたいとき、
このように、そっとひそかに刷りこむように祈ると叶いやすくなる、
という方法を聖書はといているのだと私は思う。
「絶対○○になる!」と、
自分に無理に楽天的なことを言い聞かせようと、
脳は必ずいちど疑うのである。
それを盲信することによるリスクに着目し、
それにたいして警鐘してしまうのである。
油断してはダメだぞ、という風に。
これは、ホメオスタシスの働きによる。
ホメオスタシスとは、リスクを避けてその状態を維持しようとする働きである。
変化に対する抵抗である。
つまりリスクが怖いのである。
変化するためには、
当人がやらなければならないこと、乗り越えなければならないことが生じてくる。
これを意外にすんなりできるようにする機能が、
「かくれたところの神に祈る」
である。
「未来は案外、わくわくするものになるかもしれない」
「この年で仕事で成功するのは到底無理かと思っていたけれど、意外にいけるかもしれない」
「案外、簡単によくなるかもしれない」
「もうだめだと思っていたけれど、やり直せるかもしれない」
等々……
かもしれないといって、
あえて信憑性へのハードルを低くしてやる。
それにより、わるい方へ遮二無二働いていた論理的思考(思考のブレーキ)が、
外れやすくなるのである。
だから苦しい時、不安を感じてもやもやするときは、
まず思い込んでいると自覚すること。
そして真逆のことを「○○かもしれない」などと、
敷居を低くして脳に伝えること。
このことを、
何度も何度も自分に言い聞かせる。
しばらくすると、
楽観的な未来へのビジョンについて、
「そうなるかもしれないな」と思えてくる。
あなたがこういった記事を読んでいるということは、
あなたがいい未来を希求しているということ。
その力があるということ。
すでにギアはチェンジされているのだ。