不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法7ー1)
他者から能力を評価される。
そうなりたいが、思う通りにいかず気落ちする。
社会的評価。
他者と自分を比べてどん底に落ちそうになる。
等々。
自分はなんてダメな人間なのだろう、と思うことが多々ある。
他者からの評価や、自身が自分をどうにも評価できないときの落ち込みは、
想像以上に苦しい。
これは”承認欲求”に対する渇望なのだと思う。
他者や自分から認めてもらいたい、という欲求で、
その感情自体はあって当然であり、健全なものである。
しかし承認欲求が得られないと、
人間は自分には価値がないのではないか、とつい極端に考えてしまい、
絶望したり、不安になったり、うつ状態になってしまったりする。
社会的成果をあげることができていない、とか、
仕事で認められていない、とか、
テストの成績、学歴、収入、年齢等々…
こうであれば価値ある人で、
こうでなければ価値のない人、
というように、自分を成績・報奨などの数字や他者からの評価によって二分してしまう。
そして恐怖心や絶望感を抱いてしまう。
「今日は何も仕事で成果がなかった」
「何も得られるものがなかった」
「何も前進していない」
もしあなたがそんな風に感じて苦しい時には、
今日という日に、
収入や成果に関わること以外に、
魂が何を得られたのか、ということに焦点を当ててほしい。
(以下、自分のつまらない体験で申し訳ないのだが、
わかりやすくするために例として挙げたいと思う)
ある結構大きな会社からいい仕事が貰えそうだったが、
なかなか決まらなかった。
担当者から電話も来ない。
自分は仕事をやっていく上で、彼らにとって価値がなくなってしまったのか、と思い悩んだ。
さらに、こういったことはなぜか同時に起こるもので、
複数の会社に声をかけていたのだが、進展していた途中で、
同時に連絡が来なくなったのだ。
人間は点と点を見たら、直線を引いてしまうド変態である。
「もうダメだ、自分は価値がないと見なされたのだ。
過去うつ状態で15年もフリーズしていたことや、
またはうつ状態で会社に行けなくなった時のことが全員に知られてしまったのか」
と考え、非常に苦しい時間を過ごした。
同業者の友人にそのことを、さらっとした文面でメールした。
一緒に苦労の道を歩いた仲間でもあったので、
こういったことは相談しやすかったからだ。
すると、メールの返事がかえってきた。
”そんな過去なんかあの会社の人たちは知らないですよ。
過去は過去なんで、これから助け合っていきましょう”
と、自分の案件を振り分けてくれたのだ。
私は非常に驚いた。
たしかに友人ではあったが、こんな言葉で励ましてくれるなんて思ってもみなかったのだ。
それに仕事まで分けてくれた。
友人は苦労を共にした仲間でもあったが、
ライバルでもあった。
相手には負けたくないという気持ちも、どこか常にお互い持っていた。
しかし、ある時、私は相手が苦痛を感じない程度の言い方で、
自分の過去についてすこしだけ打ち明けた。
相手も大変つらい境遇にあったことを、知っていたからだ。
打ち明けたとたん、相手の言葉がすごく優しくなった。
表向きそうやっているのではなく、
本当に親身になって励ましてくれるようになったのだ。
しかし友人からアドバイスをもらっても、以前状況は変わらなかったから、
苦しさは続いた。
自分がその大きな会社から選ばれたかったという思いが強かったのだ。
そこまで到達することができれば、
過去の失敗をある程度ぬぐいされ、価値のある人間になることを証明できる、
と感じていたからだ。
ダメだった自分が、評価される自分に変わる。
そこに希望を抱いていた。
だが、自分が相手に選択を強いることはできない。
相手が選ぶか選ばないかは、相手次第であり、相手に権限があるのだ。
こちらからは何をやってもどうしようもない。
そんな苦しさを味わううち、
どうしたらこの不安や苦しさが柔げられるのか、と模索した。
そして、
「お金」や「成功」や「評価」とはまた別の基準の、
自分を満たすものについて考えることにした。
今日、私の魂は何を得たのか、と考えた。
つまりカネも評価も関係ない事柄で得た成果について、だ。
”あの友人が親身になって励ましてくれた”
それが人生にとって大切な宝物のように思えた。
人対人で得られるかけがえのないエネルギーだった。
友人は無償の思いで励ましてくれた。
つまり私は、
カネや報奨とはまた別のエネルギーを、
誰かから受け取ったのだ。
15年、寝たり起きたりで抗うつ剤に縛られ、関わりを避けていた人間が、
友人をつくり、その人が心からの想いをもって励ましてくれた。
奇跡のような出来事に思えた。
いとおしくなるような出来事だ、と気づいた。
カネや社会的成功がわるいというのではない。決してそのようなことはない。
それはそれで目標にし、向上していけばいい。
ただそれだけではなく、脳には複数の価値基準があるということ。
そこに自分自身で焦点をあてると、
不安を感じていた脳の部位は、すこしずつ鎮静する。
言語を持たない扁桃体の価値基準は、
数字や成績などによって示される部位の価値基準とは、
異なるものだからなのかもしれない。
脳の価値基準の判断の仕方はひとつではないのだ。
成績や収入等以外の価値基準がわかりにくい理由は、
おそらく扁桃体が数字や言語などの表現方法を持たないからだ。
扁桃体はなんによって”収穫”を感じるか?
なにか扁桃体にとっての幸せなのか?
ここまでは、すこし「イイ話」のような抽象的な表現だが、
次回、もう少し理屈っぽく説明していこうと思う。
<7ー2につづく>