不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法3)
前回の記事で、”かもしれない認知療法”について書いた。
今回は、この”かもしれない”の効果について少し書いていこうと思う。
○不安な時は、脳が「思い込み」をしている時
先行きについて考えた時、思わず不安になることもあるかと思う。
先行きだけに限らず、なにがしかの不安がもやもやと続いている時は、
大抵、脳は「思い込み」をしている。
こうなったらどうしよう、と言語上は思考しているが、
その「こうなったら」の部分が、
本当は「こうなりそうだから」「こうなるにちがいない」
と思い込んでいるのである。
「こうなるにちがいない」から不安だ、と思っているのである。
そのように苦しくなった時には、
不安の情動にのまれているため、
大脳新皮質のチェック機能が働いていない。
それなので、もやもやとした不安を感じたときは、
→私はいま、そうなると思い込んでしまっている。
だから不安を感じているのだ。
と心のなかで自分に伝えてみよう。
高い確率でこうだろう、とか、
ふつう世間ではこう言われている、
などの根拠が自分の中にあるのかもしれないが、
いい意味で、あなたの情報が世界のすべてではない。
いろんな人にきけば、それこそ、いろんなケースやパターンがあるということに気づくはずであるし、
実際そうなのである。
本当に無限といっていいほど、いろんなケースがあるのである。
この多様性が、人間社会を図太く支えている骨子なのだから。
もやもやとしたりぐるぐるマイナス思考にはまったり、
絶望感を感じてしまう時には、
思い出してほしい。
「今、私の扁桃体は、悲観的な状態になると思い込んでいる。だから苦しいのだ」
と。
すると、少し気分が和らぐと思う。
その状態が絶対起こるとは限らないことを、本当はあなたは知っている。
○”かもしれない認知療法”の「かもしれない」効果について。
ポジティブシンキングをすることは重要だが、
なぜか「絶対いい方向に変わる」「絶対将来○○となる」
と無理矢理刷り込もうとすると、
かえって疲れたり、不安になったりする。
なぜそれよりも、
多少ファジーな「かもしれない」と唱えたほうが、
不安が減る効果が高いのか。
私は無宗教だが、聖書には、祈る時の方法として、
「奥まったあなたの部屋に入り、隠れたところにいる神に祈りなさい」
と書かれている。
このことばの神学的な解釈はさておき、
このように表現されているところに理由がある。
「奥まった部屋」「隠れたところにいる神」とは、
潜在意識のようなものではないか、と云われている。
自分の願いや祈りを叶えたいとき、
このように、そっとひそかに刷りこむように祈ると叶いやすくなる、
という方法を聖書はといているのだと私は思う。
「絶対○○になる!」と、
自分に無理に楽天的なことを言い聞かせようと、
脳は必ずいちど疑うのである。
それを盲信することによるリスクに着目し、
それにたいして警鐘してしまうのである。
油断してはダメだぞ、という風に。
これは、ホメオスタシスの働きによる。
ホメオスタシスとは、リスクを避けてその状態を維持しようとする働きである。
変化に対する抵抗である。
つまりリスクが怖いのである。
変化するためには、
当人がやらなければならないこと、乗り越えなければならないことが生じてくる。
これを意外にすんなりできるようにする機能が、
「かくれたところの神に祈る」
である。
「未来は案外、わくわくするものになるかもしれない」
「この年で仕事で成功するのは到底無理かと思っていたけれど、意外にいけるかもしれない」
「案外、簡単によくなるかもしれない」
「もうだめだと思っていたけれど、やり直せるかもしれない」
等々……
かもしれないといって、
あえて信憑性へのハードルを低くしてやる。
それにより、わるい方へ遮二無二働いていた論理的思考(思考のブレーキ)が、
外れやすくなるのである。
だから苦しい時、不安を感じてもやもやするときは、
まず思い込んでいると自覚すること。
そして真逆のことを「○○かもしれない」などと、
敷居を低くして脳に伝えること。
このことを、
何度も何度も自分に言い聞かせる。
しばらくすると、
楽観的な未来へのビジョンについて、
「そうなるかもしれないな」と思えてくる。
あなたがこういった記事を読んでいるということは、
あなたがいい未来を希求しているということ。
その力があるということ。
すでにギアはチェンジされているのだ。