私が抗うつ剤を止めていった過程 その4
さて、罪悪感、自己嫌悪、失敗と失望、悲しみ。
不可抗力の部分も大きいとはいえ、自分にも半分くらいは原因がある。
自分が人生を選択してきたのだから。
逃げてきたのだから。
それに気づいたとき、自身のおろかさと将来への不安、そして迷惑をかけている家族への思いがうずまき、とてつもない苦しさが襲った。
旅をしていれば、不安で全身を火だるまにされているような苦痛を忘れる時間がある、
と気づいた。
ほんの数分、数十分ではあったが、少しでも和らぐ時間があるということは
暗闇の中にうっすらとした光を見るような気分であった。
風来坊のような旅だったけれど、昔は一人で世界中をそうして旅した。
計画せずに行きあたりばったり。サンダルで中東へも出掛けていく。そんな心のおおらかさがあった。
しかし、もうそんな無謀なことはできないし、好き勝手してきた自分が許せない。
さらにこの時はおさない我が子が一緒だった。
母親として、ただそばに居ることしかできない。
それすらも時々、苦しくなるのだ。
絵本を読んだり、一緒に向かい合って遊んだり、たくさんお話したり、楽しく出掛けたり。
そういうことがほとんどできなかった。
なぜできなかったのか、理由はいろいろ考えられる。
母親として自信がなかった。
抗うつ剤を十年以上も飲んでいた。体にも原因不明の痛みの症状がある。
副作用で体がだるくて動けない。
副作用でイライラと怒りっぽく、世の中にうらみつらみを抱く始末。
子供とは赤ちゃんのころ、症状が重く、一緒に過ごしてやれない時間が長かった。
そして育児に関して誰の助けやアドバイスも受けられない、そういうことが、大きな恐怖としてのしかかっていた。
こどもがかわいそうでかわいそうで仕方なかった。
せっかく可愛らしく生まれてきてくれたのに...
こんな私のもとへ、健康に優しく生まれてきてくれたのに。
ただ、横に座っていることしかできない。
それでもふらり旅の途中、ホテルを見つけて、
初めてアイスキャンディーを食べさせた。
冷たくて爽やかなアイスを、とてつもなく嬉しそうに至福の表情で食べていた。
それまでは虫歯にさせたくなかったため、
砂糖入りのお菓子をあげずにいた。
しかしこの時は、なにか美味しいものを食べさせてあげたかった。
すると、ホテルの一室で、
こどもは、アイスを「シャリシャリ」とてもきれいな音で食べた。
うまく説明はできないけれど、
その音を聞くと、心にかすかにスッキリとした清涼感のある風がふいた感じがした。
少しだけ、楽になったのだ。
子供。
寂しかったときもあったし、甘えたかくても甘えられなかっただろう。
それでも一生懸命でひたすらに私のそばにいてくれる。
私がお母さんでごめんなさい、と何度も何度も思った。
正直、私の性格には偏りがあるため、今でも無駄に苦しむことも多い。
だから今でも、お母さんがこんなでごめんなさい、と何度も謝っている。
そんな子供を見ていると、もう抗うつ剤は飲みたくなかったし、
逃げるほうがよっぽど苦しい選択だと思えてきた。
旅から帰り、
旅をしている時には不安を忘れる時間帯があった、と医者に伝えた。
それから三ヶ月ほど病院に通って、
自分がほんとうに薬は必要ないのか医師にしつこく相談した。
医師の言うことは一貫していた。
「あなたにはもう薬は必要ない」
だが私は聞いた。
「しかし過去に長い間飲んでいたんです」
「過去は過去であり、今は医師として処方するものではない」
「日常生活もどうにかという状態なのですが」
「そうですか」
と言うが、処方せんは出さない。
「病気ではないか、としょっちゅう考えること事態が病的なのではないでしょうか」
「病的と病気は異なりますよ」
こんな風に、私は何度も、「自分には薬は必要ない」と言い聞かせ、確認するために診察を受けに行った。
医師も正直人間だから呆れていたと思う。
しかし、私の気持ちを汲み取り、助けてくれていたのかもしれない。
医師はいつも言っていた。
あなたに必要なのは行動だ、と。
私はずっと人とのまともなコミュニケーションを絶っていた。
よりよく生きること、真面目に働くことから逃げていた。
この状況から脱出するためには、それらを改善するための具体的な行動をしなくてはならないのだ、と気づいていた。
しかし具体的にどうしていいかわからないのだった。
それに薬を絶ったことやトラウマなどが重なり、
買い物もままならない状態だった。
どうしたらいいのか?
今さら世の中に出るなどこわいのに、どうしたら?
それでも模索した。
離脱症状よりは多少ましだが、いてもたってもいられない苦痛のなかで、
なんとか道を切り開こうと思った。
もういちど社会へ出るために。
もういちど明るい世界を取り戻すために。
子供ともっと向き合えるための希望を取り戻すために。
つづく