不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法18)
昔、ああだったら、
と私もしょっちゅう思う。
しかし、
昔のことを気にしていたって、意味がない。
連続性があるようで、実のところ昔にはもう帰れない。
今と昔は、
よい意味で、
違うものなのである。
だから、今苦しいからといって、
明日が信じられないからといって、
未来が楽しく明るくないといえる理由は、
どこにもない。
私は医師ではないが、
当事者だ。
私自身が、苦しみをいやというほど味わった。
冗談ではなく、片目が網膜剥離しかけるほどの恐怖と不安におびえ、
難病かもしれないといわれるほどの、
体の痛みが十五年以上も続いた。
痛みは消え、目も治った。
そして、今、楽しく生きている。
抗うつ剤をのまずに、ごく普通に生活している。
もちろん性格上、
不安になりがちで、落ち込んだり考えすぎたりするところがある。
しかし、それに対処する方法を模索していくと、
人間の脳は、
結構じわじわと効果を出すようになる。
正直いって、うつと言われる前よりも、
今のほうがずっと楽しい。
何度も云うが、
私は医師ではないが、
当事者本人だ。
抗うつ剤をやめて、
普通の生活を、
明るく楽しく送ることは、
あなたの力で、
必ずできるようになる。
私は重度のうつと専門医に診断され、
長い間入院すらしていた。
一ヶ月や二ヶ月ではない。
ほんとうに長期、入院をしていたのだ。
退院はしたものの、人間らしい生活とは言えなかった。
退院後、しばらくこもり、問題から逃げていたのだが、
辛い経験があり、
人生にいやでも、向き合わなければならなくなった。
逃げるわけにはいかない年齢に来ていた。
薬をやめるきっかけになったのは、
ある内科を訪れた時のことだ。
今考えると、
どうしてそんなことを考えたのか自分でもわからない。
だが通院していた病院の雰囲気があまり好きではなく、
近くの内科で薬をもらうようにしていた。
その時、内服している安定剤を処方してもらおうとしたのだが、
なぜかこの内科医が渋った。
内科医は、私に言った。
「まだ人生の半分も来ていないのに、
こういう薬に浸かるのは、早すぎる。
処方したくない」
私は驚いた。
自分では、もう人生は終わったも同然だと思っていたのだ。
しかし内科医はまだ言った。
「八十とか九十才ではないのですよ。
あなたはまだ若い。
残りの人生を、ずっと薬で生きていくつもりですか?」
(°Д°)
もう誰からみても、明らかに、終わった人生だと思ったのだ。
三十代をほぼずっと薬を服用してすごし、
家にこもり、
人との絡みをほとんど避けて生きてきた。
私には、まだ先があるのか・・・?
と不思議に思ったとともに、
では先があるとしたら、この先ずっと長く長く、
人生と自分に絶望したまま生きていくのか、と我に返った。
せっかく私を生んでくれた両親。
支えてくれた人々。
やさしい親戚や明るい友人たち。
楽しく過ごしていたころの皆。
そして、我が子。
罪悪感でいっぱいだった。
せっかく与えられた自分の人生を、
台無しにしてしまったのではないか?
これで、いいのか?
いや、
いいわけないだろう。
私は、
自分の人生の、
主役なんだ、
・・・・ということに気づいたのだ。
そう正気に戻ったときに、
できるだけ薬をやめていこうと決心した。
薬をやめること自体は、それほど難しくはない。
注意深く減らしていけば、(あくまで私の場合だが)、
断薬症状はそれほどひどく出なかった。
しかし、
薬に頼れなくなった時、
自分の精神のたのみのつなが、まったくない状態で、
どのようにこの困難な現実や、
生きたまま焼かれるような大きな不安・恐怖と戦えばよいのか、
わからなかった。
誰も教えてくれない。
検討もつかない。
人間らしい生活もやっとなのに、
どのように、これに対処すればいいのか。
このブログでも経緯は書いたが、
ほとんど人間らしい感情は残っておらず、
心のなかには恐怖と不安しかなかった。
しかし子供も幼いので、
うずくまっているわけにもいかず、
薬なしで子育てや保育園の活動をしなければならなかった。
家に閉じ籠っていても余計に恐怖がつのり、
あてもなく外へ出て、
目的もなくぐるぐる動き回る。
そんな異様な日々だった。
しかし、
そうしてもがいているうちに、
だんだんと、
うっすら光のようなものが、
あるかないかほどの光のようなものが、
見えてくるような気がした。
不安が消えている時間がある、ということに気づいたのだ。
あまりにも恐怖が強かったので、
肉体自体が必死になって、
そういう時間帯を生存本能を駆使し、
作ったのかもしれない。
私の場合は、
不安が取れずにっちもさっちもいかない、
と苦しんでいる日々を過ごすうち、
なぜか、
午後六時をすぎると、
落ち着くようになった。
ランニングや長風呂を始めたからかもしれないが、
明確な理由はわからない。
理由はさておき、
私はこの午後六時を過ぎて、
気持ちが落ち着くことに、
注視した。
朝や昼間の地獄のように苦しいときも、
「午後六時を過ぎたらなぜか少し落ち着く」
と考えると、どうにかやり過ごせたからだ。
そこが突破口だった。
それから、
いろいろな人に助けてもらい、
励ましてもらい、
力を与えてもらい、
どうにか薬をやめて、仕事につくことができた。
仕事についても不安は大きい。
自分がどこかおかしいのではないか、とか、
失敗したらどうしよう、などいろんなことを考えた。
だが・・・・・
家にいて薬を飲んでいた時期のほうが、
はるかに辛かった、
・・・・ということが、ハッキリとわかったのだ。
困難と思っていた解決すべきことから、
逃げていた時のほうが、
もっともっとずっと苦しく辛かった。
職場にいれば他の人間たちがいて、
よくもわるくも、おたがい影響しあうのだ。
会話もするし、いやなこともいわれるし、よいこともいわれるし、
冗談だって言ってくるし、
忙しくていろいろやることがある。
そういった、
その場の不安に対処しているほうが、
わけのわからない未来への恐怖感につつまれているよりも、
ずっとずっと楽で、
むしろ楽しさすら感じた。
ものすごいめんどくさがりの、なまけものだったが、
なんとかできる範囲で勉強したり、向上したりしていくと、
世界はちゃんと答えてくれる、
ということも、わかるようになった。
あなたが世界に心を開けば、
世界はちゃんと応えてくれる。
このことに間違いは、無い。
あなたの苦しさは、必ず、あなたの強さになる。
あなたの絶望が、やがてあなたを生かす命になる。
私は、当事者なのだ。
だから、
あなたの力を信じている。