passyoo(パッショ)の日記

不安、うつ、抗うつ剤を克服した経験をつづったサイトです

不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法19ー2)

 

 さて前回の記事で、私のプチ・波瀾万丈ぶりを書いてみたが、


 あなたに宿題を与えました。


 あなたは、私のその状況・行動・心理をみて、どのように感じただろうか。


 ここがあなたにとって、重要なのである。

 

 

 

 パッショさんって、


 もしかして意外に巨乳で美人なのでは・・・?


 と思ったであろうか。

 

 

 

 よかろう。その調子でポジティブ・シンキングを続けてほしい。

 

 

 

 

 

 次に進む。

 

 

 

 

 

○つーか、どう見てもヤバいだろ?

 

 

 

 正直、私のその有り様を読み、なんかこいつちょっと危ない、と感じたのではないか。

 しかし、自身が渦中にいるとなかなか気づかないものなのだ。

 

 

 これは私も、今でもよく注意しなければならないことで、
 うっかりしていると、相手がどう思っているかの「魔」にはまってしまう。


 そしてマイナス思考の地獄に落ちるのである。

 

 


 すまんが、今でも多々ある。

 

 

 

 


 それにしても、私の当時の仕事に関する状況ときたら・・・・


 勤務時間に、宗教活動の会議報告につきあわされたり、

 意味不明の体操をさせられたり、

 材料費の失敗を自腹でさせられそうになったり、

 契約書や設計書などの重要データを改竄させられそうになったりしたのだ。

 最後のやつはもう犯罪である。

 

 

 それも、普通のサラリーマンよりもずっと低い月給のために、だ。

 

 


 なのに、そこに居られない自分を責めたのだ。

 

 

 


 この世界にはちいさな部署の長であっても、支配力を無意味にアピールしたがるやっかいな人間がいる。自分を磨かず、かりそめの権威に溺れようとする堕落者である。

 もしくは、人の弱い心理を悪用し、宗教の名を借りてカネや労働力を搾取する人間もいる。
 人に何かを提供するのではなく、人から搾取することで利益を拡大しようとする、これらもまた堕落者である。

 

 

 

 しかし彼らをむやみに憎んでも無意味なのだ。

 

 自分がやっていることの、本意・意味がわかっていないからだ。


 すべてがこのパターンではないが、もしこのパターンである場合、

 

 

 そのような者の価値基準がなんだというのか?

 

 


 このように、

 

 うっかり社会的価値基準のみに、自己評価をゆだねていると、

 

 利用されてしまう可能性が高くなるのである。

 

 


 つまり、社会的価値基準=自分の価値 →を100%にしてしまうことは、

 

 

 他者に支配されやすくなる、

 

 ということなのである。
 

 


 自分を評価する他者の機嫌を取り、

 評価者の望むままに行動し、

 自分のなかで大切に培ってきた善悪の基準を捨て、

 自分の尊さから目をつぶる行為。

 

 


 それは、「支配される」行為とも云える。

 

 


 しかし、渦中にいれば、

 相手に評価されず、

 価値のないものとして扱われ、

 社会的失墜や仕打ちをうけ、

 多数の人から、疎外されてしまうのではないか、

 という恐怖感がこみあげ、負けてしまう。

 

 


 その時の恐怖もまた、すさまじいからだ。

 

 

 


 私自身も、こうして自己流ではあるが、

 数年かけて訓練してきたにも関わらず、

 うっかり無防備に、この思考にはまり、

 苦しみと不安にのまれてしまうこともある。

 

 


 しかし、

 

 


 それでいいのだ。

 

 ポイントは、ここなのだ。

 

 

 

 ここが、人間の弱いところなのである。


 つまり、こここそが、ポイントなのである。


 だから、あなたは、そこに注視すればいいのである。

 


「では、どのようにすればよいのか?」

 


 と自分に問いかけるのである。

 

 

 

 

○コツしだいで誰でもできる。

 

 

 

 私の場合は、

 

 たまたま起こったある出来事により、

 

 重度のうつ状態に陥り、

 

 死んだように15年も暮らし、

 

 そこからいやでも這い上がらなければならなかった、という状況だった。

 

 


 たまたまだが、

 

 どうしても立ち直らなければならなかったのだ。


 その時非常に苦しみもしたが、

 

 

 同時に多大な恩恵を受けた。

 

 

 


 あの苦しみ以上のものは無かった。

 

 だから、対人関係で目の当たりにパンチをくらうことや、

 社会でもまれて、疑心暗鬼になったり、つらいことがあっても、

 あの苦しみに比べれば、

 こんな苦しさは、喜びですらある、という感覚を得たのだ。

 

 別にマゾではない。

 

 

 苦しいのだが、あれに比べれば、「ましだ」という感覚だ。

 

 うつ状態で家に閉じ籠ったり、
 

 社会や問題から逃げていた時期よりも、

 

 ずっと今のほうが苦痛が軽い。

 

 

 

 むしろこの今の社会にいるが故の苦痛が、


 底無しの恐怖や不安から自分を救っていてくれているのだ、

 
 ワクチンみたいなものだ、

 


 ということが、実体験としてわかったのだ。

 

 

 

 

 

 そう感じると同時に、

 自分はまたどうにかしてやり方を見つけ、這い上がれるだろう、

 という感覚も得た。

 

 

 自信まんまんの「自信」とはちょっとちがう、

 

「まあどうにかなるだろう」という感覚で、

 

 煙や霞とは違い、すこし生々しい実体感をもつ、

 

「まあどうにかやっていけるだろう」

 

 という感覚だ。

 

 

 心が80%死んだような日々だった。

 まともな感情も持てず、

 動物的な反応、動物的な恐怖感にのたうちまわる日々。

 そこから残り20%をどうにか駆使して、

 ここに至った。

 

 

 

 私は自慢したいのではない。

 


 私が特別なのではない、ということを、伝えたいのだ。


 だからこのブログを書いている。

 

 

 


あなたが苦しみから救われてほしい。

 

 


あなたの心を晴れやかに明るくしたい。

 


そして、それは、

 

 

あなたにも十分できることなのだ。

 

 

 

 

 つまり、

 

 

 あなたは、絶対に大丈夫だ!

 

 

 ということを、理解してほしくて書いている。

 

 

 

 

○心の楽園

 

 

 人間には誰しも、心を再生する力があるのだ。

 

 

 技術というか、工夫、こつを知らないだけなのだ。

 それだけなのだ。


 

 抗うつ剤などの薬はたくさんばらまかれるが、

 

 その真のアプローチに関する具体的な方法が、あまり啓蒙・伝授されていないがため、

 

 やり方がわからず、

 

 無理なのではないか、

 

 という誤解のもとに絶望しているだけ。

 

 

 

 薬によって与えられるつかの間の安堵は、永遠ではない。

 

 

 ほんとうの安堵とは、

 

「過去の問題、

 

 癒えない心の傷、

 

 ひどい記憶、

 

 罪悪感」

 

 


 それらを抱えながら、

 

 乗り越えていく、あなたの力を、

 

 


「信じる感情」

 

 


 なのだ。

 

 

 


 これこそが、

 

 他者が何を言っても崩壊しない、

 

 あなただけの楽園なのだ。

 

 

 

 

 そこに他者は、介在しない。

 どんなにわかりあえる恋人であっても、親兄弟や親友であっても、

 介在しないのだ。

 

 

 そこは、他者の無い場所なのである。

 

 


 それが重要なのである。

 

 

 

 

 


 そして、楽園は、

 一朝一夕に出来上がるものではない。

 それでいい。

 

 


 いくらでも、その時に向き合い解決し、

 

 楽園を拡大していけばいい。

 

 時間をかけて無限に作っていけばいいのだ。

 

 

 

 つくればつくるほど、あなたは強く、自由になれる。

 

 

 


「自分は素晴らしい人なのだ」

 

「自分は自由なのだ」

 

「自分の人生は、ほんとうは素晴らしいものだったのだ」

 


 という真実に気づくことができる。

 

 

 


 あなたは、今、そんな旅をしているのである。

 

 

 


 次回19ー3では、
「ではどうすればいいのか」ということについて、
 具体的に書いていきます。

 

 

 

 

 

 

不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法19ー1)

 

 誰もが自分のことを、価値のある人間だと思いたい。

 

 そしてそのために力を使い、時には苦しくもがく。


 この”承認欲求”は、人間の根元的欲求ともいえる。

 

 

 

○自分の価値基準を外側にのみゆだねるのは危険

 

 

 

承認欲求を無防備に満たそうとするとリスクが伴う。


私自身の感じたところによると、承認欲求を満たす行為のうち、

どれがリスクが高くて、どれがより正当な方法か、あまり啓蒙されていないように思う。

人間全体として、まだうまくまとめきっていない、という感じがする。

 


社会に認められたい、社会的価値のある人間になりたい、

と私もしょっちゅう思う。

劣等感とコンプレックスの固まりだからだ。

 

 


抗うつ剤をやめた頃に襲ってきたとてつもない不安は、

おそらくこの年でこれだけ薬漬けの生活を送り、世の中と隔絶して生きていたら、

もう社会的に価値がないのではないか、

仕事に就けないのではないか、

という恐怖が強かったからでもある。

 

 

私は無価値のまま人生を終えるのか?

そう考えると、

根っこが揺らぐような恐怖を感じた。

深い絶望だった。

 

 

 

 

○アルバイトの身分の者は、土煙だらけの場所に駐車せよ

 

抗うつ剤をやめてから仕事を探しだした時は、

精神的にもまだ不安定でなかば錯乱している状態だった。

 

やれる自信もない上に、ブランクもかなり長かったため、

アルバイトから始めることにした。

 

アルバイトの仕事をなんとか近場で見つけた。

師匠はその時給の安さに、「自分を安売りするな」と、おカンムリだったが、

自分の劣等意識と罪悪感が強かったため、

仕事があるだけでも御の字だと思っていた。

 

 

しかし、である。

職場は小企業だったが、

私以外の職員たちは皆正社員だ、ということにある日気づいた。

 

 

そんなこと、自分ではまったく気にしていなかったのだが、

この会社が昔気質の会社で、アルバイトと正社員の身分をきっちり分けるのだった。

 

 


たとえば会社の駐車場は、

正社員はアスファルトで舗装された囲いのある場所に停めてもよく、

アルバイトはそこに停めてはならない。

 

アルバイトの身分の人間が停める駐車場のために、

わざわざ土やら砂利敷きの場所を借り上げ、停めさせる。

 

 


正社員で中途採用されたある男性は、

見習いの間は、その砂ぼこりが舞う野良駐車場に駐車させられ、

めでたく試用期間の半年を過ぎると、

アスファルトの駐車場に停めていい、という許可を得た。

 

 

むろん、私は正社員にはなれなかったので、

ずっと生土混じりの埃っぽい砂利のところに停めさせられた。

 

 

 

こういった上下関係、またの名は「身分制度」を、

業務外のところでも徹底して見せつける会社だったため、

私は劣等感に苦しんだ。

 

 

 

自分も抗うつ剤をのむような事態になるまは、普通に暮らしていた。

 

しかし人の力ではどうしようもない、コントロール不能な状態に陥り、

 

不運にも抗うつ剤に頼り、寝たように暮らすしかなかった。

 

仕事にも行けなくなって、会社もドロップアウトした過去がある。

 

 


おそらく、他の人たちは、こんな特殊な目にはあっていない。

 

 

けれど、例えどんな事情があっても、

社会的には「大した仕事ができない状態だから価値がない」と見なされる。

そして屈辱的な扱いを受ける。

 

 

 

これが世の中なのか・・・?

 

とても怖い。

 

 

そう思った。

 

 

そして、どうしたらもっと上位に行けるだろう? と考えるようになった。

 

すさまじい危機感を抱いたからだ。

 


そして結論を出した。

 

「とにかく尽くすように一生懸命頑張ってみよう」と。

 

いろいろ勉強もしたし、チャレンジもしてみた。

 

 


その結果、ある女子事務社員の未処理の仕事を代わりにさせてもらうようになった。

 

彼女が仕事を手薄にしていたため、未処理の仕事がどんどんたまり、皆困っていたからだ。

 

 

 

まだ技術というほど技術を身に付けてはいなかったが、とりあえず、所属だけは技術職だった。

 

が、なぜか未経験の事務・経理の仕事をさせられることになった。

その状況に、ちっとも疑問を感じず、

 めでたく頑張りを認められ正社員の仕事を任されることになった、と非常に喜んだ。

 

 

その業務を、もくもくとやっているうちに部の上司も認めてくれて、

さらに上位の人に、待遇をよくするように話してくれた。

 

 


しかし、、、

 

 

 


会社側としての回答は、”否(ノン)”。

 

 


白髭をカールさせた高飛車なフランス貴族男が、「ノン」と言ったに違いない、

 

おもわず、そうとすら思った。

 

玉座に座り白タイツを履いて足を組んでいる”バカ殿か何か”が、きっとそういう判断を下したのだ、と。

 

あるいは猿に聞いたのか。

 

 


それくらいのテキトーさを感じた。

 

 

 

 

私が自分の自己評価の低いことを、見抜かれていたのだと思う。

年齢もあったのだろう。

 

そのため足元を見られ、

正社員に相当する業務内容を、ちゃっかりアルバイトの賃金でさせられることになってしまったのだ。

 

 

今現在の会社やほかの会社では、給与等の条件も、資格などにみあって処遇してくれている。

 

したがって、今ならこの対応がいかにテキトーだったがわかるが、

 

当時はまったくもって、自分が不運で無価値だから仕方ない、としか思えなかった。

 

 

 

そうするうち、

「正社員はとても価値がある」と思うようになり、
「アルバイトは価値がない」
と思い込むようになった。

 

そして、私は正社員として就業することを、強く望むようになった。

 

自分が価値のある人間で、価値のある人生を送っている、と思いたかったのだ。

 

 

 

 

○なったものの

 

 


この状況を打開するために、

ある会社の募集を見て転職をすることにした。

そちらの社長はたたきあげという感じだったが、

私の年齢云々は気にせず、すぐに正社員として採用してくれるようになった。

 


そこで勤務しはじめて、社員としての扱いを受けることによって、
私は満たされたような気持ちになった。

難しい仕事もどんどん任せてもらえるし、
いろんなことも頼まれるようになった。

 

 

 

しかし、、、

 

 

過剰なほどに厄介な業務を押し付けられるようになった。

 

当初募集していた業務とは、まったく違う業務を急に言い渡された。

 

クレーム処理のため、謝罪に行く業務だ。

 

 

入ってまだ二週間も経っていないのに、

 

ひとりで会社の失敗について謝りに行かされ、客からさんざん怒鳴られる。

 

 

仕事の内容もまだなにもわからないので、

勘で相づちをうち、勘で笑顔を見せ、勘で謝り、勘で立ち去った。

 

 

さらに私用の電話にも一日に何十回もかかってくる。

帰宅後も夜中や土日も、仕事の依頼がお構い無しである。

 

それだけではなく、

まだやり方も教えられていない結構な仕事を任され、

失敗したら自腹で弁償する旨を約束させられた。

数十万の経費を、である。

入ってまだ一ヶ月も経っていない。

研修なども行っていない。

 


知識も経験も技術も、すべて無の状態からやるしかないのである。

残業代など無論出ないし、

最初の三ヶ月は正社員なのに社会保険雇用保険も自腹である。

 

 

 

 

完全にブラックである。

 

 

 

当時はまだ産後だったため、

下の子はバブバブ・バブゥーとしか言えないくらいの乳飲み子だった。

 

せっかく抗うつ剤を止めて、多少なりともふつうの暮らしを送れるようになったのに、

不安やため息が多く、

子供たちにも負担をかけてしまっていた。

とても苦しい日々を過ごした。

 

 


なぜなのだろう?

 

 

バカな私は自問自答した。

 

 

「正社員になったのに」

「社会的に価値が高まったのに」

苦しいばかりの日々がつづく。

 

今思えば、ほんとうに自分がおかしな考えをしていたとわかる。

しかし渦中にいると、まともな判断ができなくなってしまうのだ。

 

 


○周囲からストップがかかる。

 


仕事とはそういうものだと思っていた。

我慢して会社のためにエネルギーを費やす。

会社に逆らうのは幼稚なこと。

 


お金をもらっているから、奉公しなくてはならない。
それが一人前というものだ。
お金をもらい、価値のある人間だと認めてもらうには、
会社の言うことをできるだけ聞いて、
会社にとって価値ある仕事をしなければならない。

 


自分を犠牲にし、尽くすことが、会社にとってありがたいことだし、
それこそが世の中の必要とする人材だからだ。

 


そう思い込んでいた。

 

 

 

そんなあるとき、自分の職業の師匠を交えた飲み会があって、


仲間たちとたがいに近況を方向することになった。

 

自分の現状報告をしたとき、

 

師匠も仲間たちもひどく驚いた。

 


入ってきたばかりの人に、
会社の不祥事をたった一人で謝りにいかせる?
そんなバカな話はないですよ、と。

 


師匠も仲間も、すぐにその場で電話をかけ、

仕事があったらパッショさんに紹介してくれ、と、

自分の知り合いに頼みだした。

 

 

私は驚き、戸惑った。

「転職なんて。せっかく正社員になったのに」

すると師匠は言った。

「しなくていい苦労ですよ。仕事はほかにもたくさんある」

 

 


○自己評価の低さは悪用される

 

 

それから紆余曲折があったが、

 

いろんな職場で仕事をすることになり、いろんなことを目の当たりにした。

 

 

ある会社は、仕事中に私が信じてもいない神についての宗教活動をすることを強制した。

 

ある会社は、トンデモ乳揺らせ体操を理由もなく強制させた。

 

幼子がいるにも関わらず、契約外の深夜業務に同行させようとしたり(風俗嬢ではない)、

 

土日や夜などに私用の携帯電話にしつこく連絡してきたり、

 

契約書やデータのプチ改ざんまで強制させられかけた。

 

 


なぜ、そのような会社で自分が仕事をすることにしたのか?

待遇や条件を満たす会社だったからだ。

正社員として雇用してくれる会社だったからだ。

私のような、高齢ママを仕方なくも雇ってくれたからだ。

 

 

私は、社会的価値を高めたいと思っていた。

どうしても、価値のある人間になりたかった。

社会に認められることで、あの苦しい地獄の日々から、立派に這い上がったという証がほしかった。

社会に認められないことが怖くて仕方なかったのだ。

 

 

自分という存在がダメな気がした。

 

普通に生きていっている人たちが、うらやましかった。

 


運がわるく、人生が狂った。

守れなかった、立ち直れなかった、強くなかった。

逃げていた。

 


そういった自分の弱い人格のせいで、

私は完全に自分の価値を失ってしまった、と苦しんでいた。

だから社会的価値を取り戻すことで、

生きる価値を取り返したい。

そう切望していたのだ。

 

 

 

しかし、、、

 

 

そのように社会的価値基準にもとづき一生懸命やっているにも関わらず、


なぜかあまりうまくいかない。

 

どんなに真面目にやっても、どんなに勉強しても、能力を必死で高めても、

好感度を高くしてへりくだっても、敷居を最安値まで低くしても、

かえって心理を悪用される。

 

 


扁桃体は猛烈な勢いで、その状態を継続することを拒否をした。

 

体調不良によって、

 

そこから脱獄するよう訴えた。

 

 

 

私は自分の幼稚な感情が情けなくなった。

なんでこんなにダメなんだろう。

なんて弱いわがままな人間なのだろう。

 

 

そして、また劣等感にさいなまれたのである。

 

 

 


さてあなたは、

 

私のこのような状況を、どう思うだろうか?

 

 

 

 

 

<19ー2につづく>

 

 

 

不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法18)

 

 

昔、ああだったら、

 

と私もしょっちゅう思う。

 

 

しかし、

 


昔のことを気にしていたって、意味がない。


連続性があるようで、実のところ昔にはもう帰れない。

 

 

 

 今と昔は、

 

よい意味で、

 

違うものなのである。

 

 

 

 

 

だから、今苦しいからといって、

 

明日が信じられないからといって、

 

未来が楽しく明るくないといえる理由は、

 

 

 

 

どこにもない。

 

 

 

 

 

私は医師ではないが、

当事者だ。

 

 


私自身が、苦しみをいやというほど味わった。


冗談ではなく、片目が網膜剥離しかけるほどの恐怖と不安におびえ、

 

難病かもしれないといわれるほどの、

 

体の痛みが十五年以上も続いた。

 

 

 

痛みは消え、目も治った。

 

 


そして、今、楽しく生きている。

 

抗うつ剤をのまずに、ごく普通に生活している。

 

 

 


もちろん性格上、

 

不安になりがちで、落ち込んだり考えすぎたりするところがある。

 

しかし、それに対処する方法を模索していくと、

 

人間の脳は、

 

結構じわじわと効果を出すようになる。

 

 

 


正直いって、うつと言われる前よりも、

 

今のほうがずっと楽しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何度も云うが、

私は医師ではないが、

当事者本人だ。

 



 

抗うつ剤をやめて、

 

普通の生活を、

 

明るく楽しく送ることは、

 

あなたの力で、

 

必ずできるようになる。

 

 

 

 

 

私は重度のうつと専門医に診断され、

長い間入院すらしていた。

一ヶ月や二ヶ月ではない。

ほんとうに長期、入院をしていたのだ。

 



 

 退院はしたものの、人間らしい生活とは言えなかった。

 

 

退院後、しばらくこもり、問題から逃げていたのだが、

辛い経験があり、

人生にいやでも、向き合わなければならなくなった。

 

逃げるわけにはいかない年齢に来ていた。

 

 

 

薬をやめるきっかけになったのは、

 

ある内科を訪れた時のことだ。

 

今考えると、

 

どうしてそんなことを考えたのか自分でもわからない。

 

だが通院していた病院の雰囲気があまり好きではなく、

 

近くの内科で薬をもらうようにしていた。

 

その時、内服している安定剤を処方してもらおうとしたのだが、

 

なぜかこの内科医が渋った。

 

 

 

内科医は、私に言った。

 


「まだ人生の半分も来ていないのに、
こういう薬に浸かるのは、早すぎる。
処方したくない」

 

 

 


私は驚いた。

 

自分では、もう人生は終わったも同然だと思っていたのだ。

 

 

 

しかし内科医はまだ言った。

 


「八十とか九十才ではないのですよ。

あなたはまだ若い。

残りの人生を、ずっと薬で生きていくつもりですか?」

 

 

 


(°Д°)

 

 

 

 


もう誰からみても、明らかに、終わった人生だと思ったのだ。

 

三十代をほぼずっと薬を服用してすごし、
家にこもり、
人との絡みをほとんど避けて生きてきた。

 

 

 

 

私には、まだ先があるのか・・・?

 

と不思議に思ったとともに、

 

では先があるとしたら、この先ずっと長く長く、

 

人生と自分に絶望したまま生きていくのか、と我に返った。

 

 

 

 

 

 

 

せっかく私を生んでくれた両親。

 

支えてくれた人々。

 

やさしい親戚や明るい友人たち。

 

楽しく過ごしていたころの皆。

 

そして、我が子。

 

 

罪悪感でいっぱいだった。

 

 

 

 

 

 



せっかく与えられた自分の人生を、

 

台無しにしてしまったのではないか?

 

 

 


これで、いいのか?

 

 

 


いや、

 

 

 

いいわけないだろう。

 

 

 

 

 


私は、

 

自分の人生の、

 

主役なんだ、

 

 

 

 

 


・・・・ということに気づいたのだ。

 

 

 

 


そう正気に戻ったときに、


できるだけ薬をやめていこうと決心した。

 

 


薬をやめること自体は、それほど難しくはない。

 

注意深く減らしていけば、(あくまで私の場合だが)、

 

断薬症状はそれほどひどく出なかった。

 

 

 

 


しかし、

 

 

薬に頼れなくなった時、

 

自分の精神のたのみのつなが、まったくない状態で、

 

どのようにこの困難な現実や、

 

生きたまま焼かれるような大きな不安・恐怖と戦えばよいのか、

 

わからなかった。

 

 

 


誰も教えてくれない。

 


検討もつかない。

 


人間らしい生活もやっとなのに、

 


どのように、これに対処すればいいのか。

 

 


このブログでも経緯は書いたが、
ほとんど人間らしい感情は残っておらず、
心のなかには恐怖と不安しかなかった。

 

しかし子供も幼いので、

うずくまっているわけにもいかず、

薬なしで子育てや保育園の活動をしなければならなかった。

 

 

家に閉じ籠っていても余計に恐怖がつのり、

あてもなく外へ出て、

目的もなくぐるぐる動き回る。

そんな異様な日々だった。

 

 


 

 

しかし、

 

そうしてもがいているうちに、

 

だんだんと、

 

 

うっすら光のようなものが、

 

あるかないかほどの光のようなものが、

 

見えてくるような気がした。

 

 

 

 

 

不安が消えている時間がある、ということに気づいたのだ。

 

 

 

 

あまりにも恐怖が強かったので、

 

肉体自体が必死になって、

 

そういう時間帯を生存本能を駆使し、

 

作ったのかもしれない。

 

 


私の場合は、


不安が取れずにっちもさっちもいかない、

 

と苦しんでいる日々を過ごすうち、

 


なぜか、

 

午後六時をすぎると、

 

落ち着くようになった。

 

 


ランニングや長風呂を始めたからかもしれないが、

 

明確な理由はわからない。

 

 

 

 

 

 

理由はさておき、

 

 


私はこの午後六時を過ぎて、

 

 

気持ちが落ち着くことに、

 

 

注視した。

 

 

 

 

 

朝や昼間の地獄のように苦しいときも、

 

「午後六時を過ぎたらなぜか少し落ち着く」

 

と考えると、どうにかやり過ごせたからだ。

 

 

 

 

 

 


そこが突破口だった。

 

 

 

 

それから、

いろいろな人に助けてもらい、

励ましてもらい、

力を与えてもらい、

どうにか薬をやめて、仕事につくことができた。

 

 

 

仕事についても不安は大きい。

 

自分がどこかおかしいのではないか、とか、

 

失敗したらどうしよう、などいろんなことを考えた。

 

 

 

 

 

だが・・・・・

 

 

 


家にいて薬を飲んでいた時期のほうが、

 

 

はるかに辛かった、

 

 

・・・・ということが、ハッキリとわかったのだ。

 

 

 

 

 


困難と思っていた解決すべきことから、

 

逃げていた時のほうが、


もっともっとずっと苦しく辛かった。

 

 

 

職場にいれば他の人間たちがいて、

 

よくもわるくも、おたがい影響しあうのだ。

 

会話もするし、いやなこともいわれるし、よいこともいわれるし、

 

冗談だって言ってくるし、

 

忙しくていろいろやることがある。

 

 

 


そういった、

 

その場の不安に対処しているほうが、


わけのわからない未来への恐怖感につつまれているよりも、

 

ずっとずっと楽で、

 

むしろ楽しさすら感じた。

 

 

 

 

ものすごいめんどくさがりの、なまけものだったが、

 

なんとかできる範囲で勉強したり、向上したりしていくと、

 

世界はちゃんと答えてくれる、

 

ということも、わかるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたが世界に心を開けば、

 

 

 

世界はちゃんと応えてくれる。

 

 

 

このことに間違いは、無い。

 

 

 

 

 

 

 

あなたの苦しさは、必ず、あなたの強さになる。

 


あなたの絶望が、やがてあなたを生かす命になる。

 

 

 

 

 

 

私は、当事者なのだ。

 

 

だから、

 

 

あなたの力を信じている。

 

 

 

 

不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法17ー3)

 

○初老なのに自由にやっちゃっていいのかな、という迷い

 


正直、最初は、

転職をやすやすと決めることはできなかった。

 

 

もういい歳なのである。

 

 

そこは、なにしろ手厚い待遇であり、

長もいろんな業務にチャレンジさせてくれる。

 

 

年齢に関係なく、

ぜひ将来は正社員になってほしい、とまで言ってくれる。

 

理性脳で考えればありがたい話だ。

私に絡んでくるなど、勘違いかもしれない。

 

 

もっと感謝の心をもって、この状態に収まらなければならないのでは、

と思ったりもした。

 

 

さらに、

 

私の扁桃体は幼稚な点があるから、大失敗してしまったのだ、と

 

不安がよぎる。

 

なぜ我慢できないのだろう? と。

 

社会的価値観を鑑みれば、ここに居続け、安定したほうが、

 

家族のためでもあるし、自分の将来のためでもある・・・・・

 

 

 

 

しかし、

 

 

 

 

扁桃体は納得しなかった。

 


体調不良によって、反乱を続けたのである。

 

 

 

 

いよいよ転職することにし、転職が決まったものの、

 

今度は新たな不安がむくむく膨らんできた。

 

 

いざ別の会社に行って、失敗だったらどうしよう?

 

 

面接やHPだけではわからない問題があるかもしれない。

 

 

私よりもさらに老いた局たちに、いじめられるかもしれない。

 

 

転職を繰り返して、落ち着かない生活を、この年でやるなんて、

 

リスクが大きすぎるのではないか・・・・


路頭に迷ったらどうしよう・・・・・

 

 

 

 

 


○人間的報奨の力

 


しかし、私は先に進んでみたいと思った。

 

別の世界を見たくてたまらなかった。

 

 

さいわい、不幸を糧に、

 

不安に対処する力を養うことができた

 

 

 

不安に対応する精神力は、

 

前より多少培われている。

 

無どころか、

 

マイナスからこの状態にまで立ち直ったのだから、

 

またどうにかなるだろう。

 

 


そう自然に思えるようになった。

 



 

そして、こう考えた。

 

 


「自分のような問題に直面している人は、


多々いるのだ。

 

なんとか、その人たちの力になりたい。

 

 


自分が状況を打開していくことや、


不安対処の方法を模索し、

 

ブログなどによって手法を伝えることで、

 

誰かの力になれるかもしれない」

 

 

 


そう考えると、

 

 

 

 

底知れない力がわきあがってきた。

 

 

 

「自分の行動のなかに、数パーセントであっても正しさがある」

 

 

という確信だ。

 

 


世間一般の価値観からは、ずれた選択だったのかもしれない。

 

自分の未熟な扁桃体をもてあまし、

 

先のリスクを考えない選択かもしれない。

 

 

 

 

しかし、誰にとっても道のりは同じではない。

 

 

皆が皆同じ道をいくことが、正しいことではない。

 

 

 

このような状況で迷いながら自分なりの選択をしても、

どうってことないとか、

案外うまくやっていけるとか、

より楽しく生きていけるのだとか、

そんな報告ができれば、

誰かをほっと安心させることもできるかもしれない。

じゃあ、そのために頑張ってみよう。

 

 

 

 

 

 


私がかつて抱えていたように、

とても苦しく辛い思いをしている人の、

安らぎや力になりたい。

 

 

 


そう考えると、

 

人間は、

 

ほんとうに強くなれる。

 

 

 

爆発的なパワーがこみあげるのである。

 

 

 

 

 

つまり、人間的報奨は、

 

他者のためだけにあるのではない。

 

本人にとっての強力な力にもなりうるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

人間的報奨のシステムとは、

 

 人間が生まれ持っている、

 

 崇高で莫大なパワーなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不安で苦しい時も、

 

地獄のように落ち込む時も、

 

問題にどう対応していいかわからない時も、

 

 すべて無駄にはならない。

 

 

 

もしたったひとつでも、

 

不安で仕方ない場面を乗り越えたことがあったら、

 

ぜひ何らかの方法で、他者にもそれを伝えてほしい。

 

 


それが同じように苦しんでいる人たちの、

 

光や希望になり、

 

安らぎになるのである。

 



 

 

 

 

 

 
その報奨はあなた自身を支えてくれる。

 

 

 

 

 

あなたは、ヒーローになるのだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法17ー2)

 

○うっすらとした感情

 

 

そして、果たして有り難いのか、この長が何かと私に関わるようになってきた。


私は、微妙な気持ちになった。


うーん、目にかけてくれてありがたい・・・

 

 

 

のか???


(;-ω-)

 

 

という感じである。

 

 

(詳細を書くのは、極力控える)

 

おそらく、長としては、私にいろんな経験や知識を与えたり、

できるだけ手厚く交流をしてやろう、

と思ってくれていたのかもしれない。

 

しかし・・・

 



個人的には、

もっとやらねばならない業務に集中させてほしい、とか、

 

不必要に長と親交を深める時間があったら、

急ぎの業務を一秒でも早く遂行したい、

 

という思いが強かった。

 

 

 

それに、私に手厚くしてくれるエネルギーを、

いつも長が叱責している自社の部下に、もっと向けてほしかった。

そうであれば、私たちは、誰かが誰かを大声で叱責し、

ダメ出しする不愉快な怒鳴り声を、もう聞かなくて済むのである。

 

 


さらに云えば、どうしても人間的に尊敬できなかった。

 

 

詳細は省略するが、

 

 

仕事の本質からかけ離れた負担を、従業員たちに押し付けているのでは?

 

という疑いが、どうしてもぬぐえなかった。

 

 


その長は、深夜の業務への同行にもそれとなく誘う。

私にはまだ幼いこどもがいて、深夜勤務は不可能だ。

ということは、最初の面接時によく話し合った。


しかし相手はパワーを持っている。

断りにくい。

が、断るしかない。

こうして、ひとつひとつに消耗していった。

 

 

 


○信じてもいない神を讃えよ

 


さらに、

私は会社の職員ではないため、

出勤時間を遅くしていたのだが、

私が勤務するのをみなで待って、

宗教的な祈りを捧げるようになったのである。

 

会社の業績を願掛けするのだ。

 

 

了解も得ず、急に呼び掛けられ、

とにかく一緒にやってください、と強制させられたのだ。

 

無論、断れない。

 


何度も書くが、

これは人間全体がおたがいのために気を付けなければならない、

要注意事項なのである。

 

 


人間は集団となると、どんな方向に行くかわからない。

排除しろといえば、排除する。

殺せといえば、殺す。

 

人間の集団は、集団になればなるほど幼稚化する。
集団化した人間は、
歯止めがきかない。

 

みんながやってるから、

世間がやってるから、

会社がずっとやってきたから。

 

それだけの理由で、人間集団は容易くまちがいを犯す。

 

 

「神」がこういってるから、と言われればそれが善という基準になり、

 

否応なしに、従わざるを得なくなるのである。

 


過ちは歴史のなかで、何度も何度も起こっている。

 

現代であっても同じ。

 

 


このようにいろいろとあったが、

すべて「私が断りにくい」という状況を、上司として利用しているように感じられた。

 

 

 

 

○感情はなぜ封印されるか

 


退職直前、

もう会わなくてすむと思っていた矢先、

理由や必然性をこねくりだして、○○業界団体の懇親会に誘おうと、

こちらを虎視眈々と見つめていた。

 

 

気のせいかもしれないし、勘違いかもしれない、とわかってはいても、

もう耐えられない、と正直思った。

 


一応、家庭の事情で退職する、と告げたのだ。

夜遊びできる状況ではない、とわかっているはずだ。

 

 


その後、社用メールで仕事について連絡すると、

 

帰宅後、私用の携帯電話に、ショートメールが来た。

 

返信したら、アウトである。

 

相手の脳に報奨を与えることになるからだ。

 

どんな処遇を受けようと、歯を食い縛って、スルーを決め込まなければならない。

 

そうでないと繰り返される。

 

 

 

また昼間確認事項済みの案件について、

 

終業一時間後に私用の携帯電話に電話がかかってきて、

 

再度、同じ内容を何度も確認されることもあった。

 

対応しないわけにはいかない。

 

 

 

気が重くて仕方ない。

 

 

 

 

こういったことが、とてもいやだ、

 

という自分の感情に、

 

明確に気づいたのは、

 

退職の二日前のことだったのだ。

 

 

 


私が完全に勘違いをしている可能性も、もちろん大。

 

 

 

 

しかし認知を修正しても、

 

なにか不愉快なのだ。

 

 

「立場を利用して、断れない状況を盾に、絡んでくる」

 

ような気がするものは、仕方ない。

 

 

 


それなのに、

「待遇がいいし、社会的に安定しているから」という理由により、

おそるべきことに、

自分の感情であるにも関わらず、

何がいやか、

何がストレスだったのか、

自分でもほとんど、わからなかったのだ。

 

 

なんだか、ちょっと、あの人、うっとおしいな・・・・

 

絡まれるのが、ちょっと嫌だな・・・・

 

 

それくらいは感じていたが、

まさかそれが原因で、体調不良まで起こしているとは、絶対に思わなかった。

 

 


なぜ、こんなことが起きるのか。

なぜ肝心な感情を封印してしまうのか。

 


人間は社会的価値観により、正直な感情を押し込める。

自分のストレスを見えなくしてしまう。

大きなストレスである、という感情を封じ込めてしまうのだ。

 

 


その感情に気づいた時、自分はわがままだ、と私も自身に対して思った。

我慢しなくてはならないのに、と自己嫌悪に陥った。

 


しかし、そう感情として抱えてしまったものは、

 

いちど自分で受け止める必要があるのではないか、と私は思う。

 

実際どうしていくか、という行動の段階になった時には、

 

社会的な常識やら価値観が必要になってくるのかもしれないが、

 

封じ込めている正直な強い感情に対しては、

 

こう感じているのだ、といったん解放し、認識したほうが良いと思う。

 

行動はどうするかは、また別の選択なのだ。

 

 

 


つまり、

社会的価値観、一般的常識、自身のこうであろうという価値観(罪悪感)。

それらにより、

自分の感情を把握できないようになってしまう心の働きが、

人間のなかにはあるのだ。

 

 

 

 

<17ー3に続く>

 

 

 

不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法17ー1)

 

 

人間はよくもわるくも報酬を求める生き物である。

 

 


報酬とは、ようするに「快楽」である。


その快楽にも3種類ほどあると云われている。

 

 


①食欲や性欲などの動物的報酬。

 

②アルコール、ギャンブルなどの短期的報酬。

 

③人間的報酬。

 

 

 

①の欲求は生物的なものなので、満たされると去っていく。

 


②の短期的欲求には依存性がある。

依存すると、抜け出したいと思ってもなかなか抜け出せない。

依存性により、生活の質が落ちたりする。

私も短期的報酬に、はまりやすい性質があるが、

この短期的報酬には注意してほしい。

 


③は、ものごとを達成したり、

他者に何らかの働きかけを無償でした時に生じる、

高次の報酬と言われている。

 

人間は時間をかけて取り組んだものや、目的を自力で達成したとき、

または他者を助けることができたとき、

「嬉しい」、「しあわせだ」、

という高次の快楽を感じる社会的な生物なのだ。

 

 


抗うつ剤に頼らず、明るい生活を取り戻したい、と考えている人は多い。

 

私はこういうブログを開設したことにより、

 

そのことを、日々痛感している。

 

 

 

 

今回は、長文になるが(3部作)

 

 

不安に対処するためには、

 

 

③の人間的報酬をガンガン活用しよう(  ̄▽ ̄) !

 

 

という記事を書いていこうと思う。

 

 

 

 

 


○地獄のような不安と恐怖の、なつかしの日々

 


以前、「私が抗うつ剤をやめていった過程」の記事で書いたが、

 

ある非常に辛いきっかけがあって、

 

もう抗うつ剤に逃げる理由が完全に失われてしまった。

 


それによって、自分の状況にたいして目が覚めるようになった。

 

 


私はもうダメなのか?

 

完全に失敗してしまったのか?

 

 


自分の問題は、抗うつ剤では絶対に解消できないものだ、と、

 

ようやく認識できたのである。

 

地獄のような苦しみだった。

 

 

 

そしてもがくようにして、

いろいろ試行錯誤し、

今の状態までたどり着くことができた。

 

 

 

 

その結果、

 

私は、同じように苦しい思いをしている人に、

 

どうか絶望しないでください、

 

とどうしても伝えたくなった。

 

 

抜け道はあるのだということを、

 

体験した当事者として、

 

何らかの形で伝えていきたいと思うようになった。

 

 


なぜなら、私が同じように苦しんでいるとき、

 

 


そこから回復した人の記事を何度も何度も読んで、

 

 

とても救われたからだ。

 

 

 

 

○見えない心

 


前回の記事に書いたが、すこしまた事例を出したいと思う。

 

 

最近の話になるが、

 

ある高待遇の職場に勤務していて、

 

申し分はない状況のはずなのに、

 

原因不明の体調不良が起きてしまった。

 

 


朝の尋常ではない疲労感から始まり、

右手首が痛くてまわらなくなり、

肩凝りも笑ってすませられるような度合いでは無くなった。

通院するようになったのだが、

よくなるどころか、

とうとう腰痛まで出てきた。

 

 

 

 

せっかく、

 

「ロッキー1」の主題歌を背に、

 

社会にカムバックしたのに・・・

 

 

 

 

 

 

私は焦った。

 

 

なぜだろう? と首をひねる。

 

 

 

事業所の長(おさ)は、

 

私に厚待遇で接してくれる。

 


なにかチャレンジ性のある仕事も任せてくれて、

 

自分がそれまで逃げていた業務についても見つめ直し、

 

乗り越えるきっかけを、与えてくれた。

 


感謝してもしきれない。

 

 

 

しかし‥‥

 

 


この長が人間的にどうしても尊敬できなかった。

 

 

誰にでも欠点があることは、わかっていた。

 

それなのに、受け入れられなかったのだ。

 

 


私には、いろいろ手厚くしてくれるのが、

 

私のような外部の人間より、

 

まずは正社員で入社した若手君に、

 

いろんな指導をするべきなのでは、と強く感じた。

 

 

なぜなら、この若手君を、

お前はバカか、

こんなこともわからなかったのか、

などと長時間、叱責するようになりだしたからだ。

 


まるで苛めのようで、聞かされているほうも苦痛だった。

 

 


私は、なぜ長が立場の弱い人間を叱るのか、

 

彼の扁桃体に着目して考えてみた。

 

 

 

 

○承認欲求+短絡的報奨は、最悪のコラボ

 

 

叱っている長は、

 

自分が権力と経験を持っているというアピールをしたいのだ、と感じた。


承認欲求を満たしたいがための行動である、と感じたのだ。

 

 


やっているほうは、

 

快楽(短期的報奨)を味わえるのかもしれないが、

相手にされるほうは、迷惑である。

 

 

自分のほんとうの力量をアピールすべき場は、そこではないはずである。

 

もっと時間をかけて、もっとてこを入れる場面において、

 

長(おさ)たるもの、力を費やさなくてはならないのではないか。

 

 

 

そこから逃げて、

短絡的に承認欲求を満たそうとするから、

貴様たちは、いつまでたってもダメ野郎なのだ。

 

 

 

差別的発言をする議員の、心理構造とまったく同じ。

 

自身が成長するために力を使うのではなく、

 

自分より弱い者をおとしめて、容易に快楽を得ようとするのである。

 

 

 

彼らは、動物的な承認欲求の奴隷なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(17ー2につづく)

 

 

 

不安に耐える力は、単なる”技術”である(抗うつ剤なしに不安を解消する方法16)

 

 

世間や自分が「これはいいものだ」と云っている価値感は、

 

あなたにとって実のところ、いいものなのだろうか?

 

 

 

そうではないだろう、と本やら何やらで云われているが、

 


今回は、それをリアルに感じた実例を書いていく。

 

 

 

 

 

○とても条件のよい職場での仕事

 


知人から、条件も仕事内容も良い職場を紹介され、

そこで仕事をすることになった。

 

向こうは正社員にと言ってくれたが、

育児もあるため断って時給換算にし、勤務時間にも都合をつけてもらった。


人間関係も穏やかで、ほのぼのとした職場だった。

仕事内容も良い。

 

 

 

私は安定と収入を考え、この会社に落ち着いたほうが良いのでは、

と考えるようになった。


本心の部分では、その会社の業務内容に対して、燃えるような熱意はなかったが、

トシもトシなので、世間一般的な価値観からかんがみて、

「ここいらで一発、安定しておかなければならないかも」

と思い始めるようになったのだ。

 

 

しかし、それから数ヵ月経ち、

朝に妙な疲れを感じるようになった。

 

朝から、疲労感が強いのである。

手首にも強い痛みを感じる。


そうなる理由は、全くわからなかった。

 

 

 

 

 

○事件は突然起きた

 

 

また幾月か経ったころ、

なぜか事務所の長(おさ)が若手の職員を叱責するようになりだした。

 

この長も根はわるくないが、癖のある人物だった。

いわゆるオレオレタイプで、何かと自己アピールをしたがる。

 

部下を叱りつけることで、

自分の経験や知識を会社の人に知ってもらいたい、という感じだ。

 

私は、このいたぶられている若手君がかわいそうで仕方なかった。

 

 

 

さらに・・・・

 

 

 

 

ある朝突然、私が出社するなり、

 

「さあさあさあ!! パッショさんが来たから、やろうかね!」

 

と全員を立たせ、

 

エッチラ体操という、わけのわからないトンデモ体操をすることを、

強いたのである(注;AVではない)。

 

 

 

 

 

(;゜Д゜)

 

 

 

 

 

唖然としながらも、ついつられて、


見よう見まねでその意味のわからない体操をした。

 


言っておくがそこは、超事務職業である。

クリックする腕さえ動けば、あとは肉体の機能は必要ない職場である。

 

 


見渡せば、

この異様な状況をみな受け入れて、もくもくと体操をしている。

誰も長に理由を聞かない。

 

 

 


この状況は毎朝続いた。

 

さらにその長が、朝体操をさせるのを忘れた時には、

 

「パッショさんが帰る前にやろうな!」

 

と夕方五時から体操を開始させるのである。

 

 

 

 

私は憤慨した。

 

 

 

帰宅前に体操をさせる理由とは、一体何であろうか???( ;゚皿゚)ノシ

 

 

 

 

 

 

 

○舌打ちを堪える日々

 

 


毎体操度ごとに、舌打ち寸前で、怒りをこらえる日々。

 

私もまだまだ未熟者。

 

扁桃体の力が強い側の人間である。

 

このイラつきを毎日押さえるのに、ひどく消耗した。

 

 

 

 

○危険な集団意識

 

 

この出来事は私に、非常に不愉快で生理的な嫌悪を生じさせた。

 

「集団がみなそうしているし、リーダーがそう命じたから、従うべき」

 

という圧力の名のもとで、人間はいともたやすく、思考停止に陥るのである。

 

 

 

 

 

 


私はこのようなものが大嫌いだ。

 

それには明確な理由がある。

 

乳を揺らされる云々以外に、だ。

 

 


「リーダーが命じたから、是非はともかくやらなければならない」

 

 


これがどんなに危険なことか。

 

 

 

 

 

 

こういうことを掘り下げないから、

 

日本社会は、大量のうつ病患者を量産してしまう。

 

 

リーダーが命じれば、集団は従う。

 

そして集団からはぐれることに本能的な恐怖を感じる。

 

恐怖によって扁桃体は操られ、

 

人間は思考停止の操り人形になるのである。

 

 

 


この恐怖は利用される。

 

人間は、集団がそれを行えば、どんな非道なことでも行ってしまう。

 

人間はその恐怖に支配され、子供や妊婦や病人たちですら大量に虐殺してきた。

 

 

 

人間の弱く危うい部分は、利用されやすいのである。

 

 

 

 

 

 

 

○脱出せよ

 


とうとう私はそこを辞め、

 

別の職場へ行くことを考えるようになった。


なにしろ扁桃体が、猛烈に拒否しているのである。

 

毎日毎日イライラしてしょうがなかった。

 

こうなってしまったら、

 

逆らうだけデメリットが増える。

 

扁桃体の力は強いのである。

 

 

 

 

 


そして・・・・・・

 

 

 


今、現在、別の職場で仕事をしているが、

 

結論として、その安定高待遇のところを去ったことで、

 

よりしあわせになった。

 

 

 


より満たされる日々を生きているのである。

 

 

 

 

このような事も起こりうるのだ。

 

 

 

世間一般の価値感、または自分で思い込んでいた価値観にとらわれることは、

人間だから多々ある。

 

 

しかし、捕らわれることをやめることでも、

予想を上回るしあわせを得ることができる。

 

 

 

 

それが真実だ。

 

 

 

 

 

 

 ○世界はあなたの想像を超える

 

 

 


重度のうつと言われ、

 

 

治療が私のように十五年など長期に及んでも、

 

 

 

抗うつ剤を完全に止めて、

 

 

しあわせに元気に健康に生きることは、

 

 

必ず出来る。

 

 

 

 

 

不安や恐怖にこつこつ対応し、

 

小さな成功を積み重ねていけば、

 

大きな力、

 

真に自分にとって活きる力を、

 

手に入れることができる。

 

 

 

 

 

 

いわゆる、物質のみがあなたにとっての、幸福のすべてではない。

 

金銭や待遇を満たすだけが、あなたという存在の真の望みではない。

 

 

 

これを自覚し、しっかり意識してみよう。

 

 

 

 

 


時に、あなたを困らせる扁桃体

 

 

その扁桃体が、時には、あなたに素晴らしい道を示してくれるのだ。